東漢時代273 霊帝(八) 東羌平定 169年(2)
段熲は春農で百姓が田野を満たしている時期だったため(馮禅が派遣されたのは春のようです)、羌が暫く投降したとしても県の官府には食糧が無く、必ずまた盗賊になると考え、虚に乗じて(馮禅の説得によって油断している間に)兵を放つべきだと判断しました。そうすれば間違いなく殄滅(殲滅)できるはずです。
そこで段熲は自ら軍を指揮して、羌が駐屯している凡亭山(『資治通鑑』胡三省注によると、「瓦亭山」とも書きます)から四五十里離れた場所に営を進めました。そこから騎司馬・田晏と假司馬・夏育を派遣し、五千人を率いて先行させます。
二人は羌人を撃破しました。
羌衆は東に潰走し、射虎谷で再び集結しました。兵を分けて谷の上下の門を守ります。
段熲は羌人を二度と離散逃走させないために、一挙して滅ぼす策を考えました。
秋七月、段熲が千人を西県に派遣し、木を結んで柵を作らせました。柵の広さ(幅。深さ)は二十歩、長さは四十里もあり、羌人の道を遮ります。
『資治通鑑』胡三省注によると、西県は、前漢時代は隴西郡に属しましたが、後漢時代は漢陽郡に属しました。段熲はまず安定郡高平で東羌を討ち、敗れた羌を追って上郡奢延に至り、霊武谷で大勝して安定郡涇陽まで追撃しました。諸羌は敗散して漢陽郡の山谷に入り、集結して凡亭山に駐屯しましたが、凡亭で敗れたため射虎谷に集まりました。東羌は東から西に移動しているため、段熲は西県に柵を作って道を塞ぎました。射虎谷は西県の東北に、凡亭山は射虎谷の東北にあったはずです。
段熲は田晏、夏育等に七千人を率いさせて分派しました。それぞれ枚(兵や馬が声を出さないために噛む木の板)をくわえ、夜の間に西山に上り、営を築いて塹(堀)を造ります(結営穿塹)。その場所は虜(羌)から一里許(約一里)しか離れていません。
また、司馬・張愷等に三千人を率いて東山を登らせました。
しかし虜(羌)がこれに気づきます。
そこで段熲は張愷等と共に東山と西山から挟撃し(原文「因與愷等挾東西山」。「挾東西山」は「東山と西山を挟む」ではなく、「東山と西山から挟む(挟撃する)」と解釈しました)、兵を放って奮撃しました。
虜(羌)が(漢軍の動きに)気づいたため、田晏等を攻撃し、兵を分けて水を汲む道を遮りました(分遮汲水道)。しかし段熲が自ら歩騎を率いて水上(川辺)に進撃したため、羌人は退却しました。
そこで段熲は張愷等と共に東山と西山から挟撃し、兵を放って撃破しました(羌は西山の田晏等の営を攻撃して山下の水源を絶とうとしました。しかし山下の段熲が羌兵を撃ったため、羌兵は東に退却しました。そこで段熲は西山の田晏、夏育や東山の張愷と共に挟撃しました)。
「射虎塞外谷」とあるので、射虎には営塞があり、その外が谷(射虎谷)になっていたようです。
『資治通鑑』に戻ります。
馮禅等は四千人を招降しました。四千人は安定、漢陽、隴西の三郡に分けて置かれます。
こうして東羌が全て平定されました。
段熲は合計百八十戦して三万八千余級を斬り、雑畜(各種家畜)四十二万七千余頭を獲ました。
費用は四十四億、軍士の死者は四百余人です。
朝廷は段熲を改めて新豊県侯に封じ、邑一万戸にしました。
九月、江夏蛮が叛しましたが、州郡が討伐して平定しました。
『資治通鑑』胡三省注から「山越」の解説です。
山越は本来、越人で、山険にたよって生活しており、賦税を納めませんでした。山険の越人なので「山越」といいます。
山越による郡県の寇擾(侵略)は恐らくここから始まります。
次回に続きます。