東漢時代274 霊帝(九) 第二次党禁事件 169年(3)

今回も霊帝建寧二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
李膺等は廃錮(罷免禁錮されましたが、天下の士大夫が皆、その道を高尚とし、朝廷を汙穢としました李膺等の生き方や節操を高尚とみなし、朝廷が汚れているとみなしました)李膺等を敬慕する者達は先を争って共に標榜しあい(「標榜」は善行美徳を評価すること、褒め称えることです。原文「希之者唯恐不及更共相標榜」)、特に優れた人士に称号を作りました。
竇武、陳蕃、劉淑を「三君」といいます。「君」は「一世において宗となる者(原文「一世之所宗」。「宗」は宗主です。思想界等で尊崇を集める代表的な存在です)」という意味です。
李膺、荀翌(または「荀昱」)、杜密、王暢、劉祐、魏朗、趙典、朱㝢は「八俊」といいます。「俊」は「人の世の英才(原文「人之英」。「俊」は「俊才」、「英」は「英明」「英才」、または「英雄」「英傑」です)」という意味です。
郭泰、范滂、尹勳、巴粛および南陽の人宗慈、陳留の人夏馥、汝南の人蔡衍、泰山の人羊陟を「八顧」といいます。「顧」は「徳によって人を導くことができる者(能以徳行引人者)」という意味です。
張倹、翟超、岑晊、苑康、および山陽の人劉表、汝南の人陳翔、魯国の人孔昱、山陽の人檀敷を「八及」といいます。「及」は「人を導いて宗(宗主)を追うことができる者(其能導人追宗者)」という意味です。
度尚および東平の人張邈、王孝、東郡の人劉儒、泰山の人胡母班(『資治通鑑』胡三省注によると、胡母氏は陳胡公の後代です。陳の公子完が斉に出奔したため、戦国時代の斉国(田斉)が生まれました。斉宣王が同母弟を母郷(地名)に封じてから、遠くは胡公から、近くは母邑から取って胡母を氏にしました)、陳留の人秦周、魯国の人蕃嚮(蕃が氏です)、東莱の人王章を「八廚」といいます。「廚」は「財によって人を救うことができる者(能以財救人者)」という意味です。
陳蕃と竇武が政治を行うようになると、再び李膺等を推挙抜擢しましたが、陳蕃と竇武が誅されたため、李膺等もまた廃されました。
 
宦官は李膺等を憎悪しました。そのため霊帝詔書を下す度に、繰り返し党人の禁(党人に対する禁令)を公布しました(宦官が詔を利用して党人の禁令を繰り返し公布しました。原文「每下詔書輒申党人之禁」)
 
侯覧は特に張倹を怨んでいました桓帝延熹九年166参照)
侯覧の郷人朱並はかねてから佞邪で、張倹に排斥されたため(為倹所棄)侯覧の意向に迎合して上書し、張倹を弾劾しました。「張倹と同郷の二十四人がそれぞれ称号を設けて(別相署号)共に部党(徒党)を形成し、社稷を危うくしようと図っている。張倹がその魁(筆頭)である」という内容です。
霊帝は詔を発し、刊章(告発した者(ここでは朱並です)の姓名を削った文書。逮捕状)によって張倹等を逮捕させました。
 
冬十月、大長秋曹節がこの機に有司(官員)を促してこう上奏させました「諸鉤党の者(党人。徒党を組んだ者達)は、元司空虞放および李膺、杜密、朱㝢、荀翌、翟超、劉儒、范滂等です。州郡に下して(命じて)考治(審問)することを請います。」
当時十四歳だった霊帝曹節等に問いました「鉤党とは何だ?」
曹節等が答えました「鉤党とは即ち党人のことです。」
霊帝が問いました「党人がどのような悪を為したからこれを誅そうと欲するのだ(党人何用為悪而欲誅之邪)?」
曹節等が答えました「皆、互いに群輩を挙げて(同類同士で推挙しあって)不軌を為そうと欲したのです。」
霊帝が問いました「不軌によって如何しようとしたのだ(不軌欲如何)?」
曹節等が答えました「社稷を図ろうと欲したのです。」
霊帝はついに上奏に同意しました。
 
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「『軌』とは法度であり、『君君臣臣(君主が君主らしく、臣下が臣下らしくすること)』とはいわゆる法である。『人臣でありながら社稷を危うくしようと図ることを不法という』、これは誠にその通りだ。しかし諸閹(諸宦官)がこの罪を君子に加えたのに、帝は悟らなかった。元帝は『召致廷尉(廷尉に送る)』を『下獄』の意味だと気づかなかったが西漢元帝初元二年47年)霊帝は)それよりもひどく暗愚ではないか(闇又甚焉)。悲しいことだ(悲夫)。」
 
ある人が李膺に「去るべきです(可去矣)」と言いましたが、李膺はこう答えました「主に仕えたら難を辞さず、罪があったら刑から逃げないのが臣の節だ(事不辞難,罪不逃刑,臣之節也)。私は年が既に六十になった。死生には命(天命)がある。去ってどこに行くというのだ(去将安之)。」
李膺は詔獄を訪ねて考死(拷問による獄死)しました。
李膺の門生故吏も併せて禁錮に処されます。
 
侍御史蜀郡の人景毅の子景顧は李膺門徒でしたが、牒(名簿)に記録されていなかったため、譴(譴責。懲罰)が及びませんでした。,
資治通鑑』胡三省注によると、当時は(名士、文士が)徒を集めて教授しており、多い者は千人を数えました。それぞれ姓名を譜牒に記録しました。
景毅が慨然(感慨、憤慨の様子)として言いました「元々、李膺が賢才だと思ったから子を送って師事させたのだ。どうして名籍から漏れているからといって目先の安寧を得ることができるか(豈可以漏脱名籍,苟安而已)。」
景毅は自ら上書して官を辞し、帰郷しました(自表免帰)
 
汝南の督郵導が范滂逮捕の詔を受け取り、征羌まで来ました。
征羌は汝南郡に属す地名です。元は当郷県といいましたが、来歙が羌人を平定したため、光武帝が当郷県を征羌侯国に改めて来歙に封じました光武帝建武十一年35年参照)
范滂は征羌の人です。
 
征羌に入った呉導は詔書を抱いたまま伝舍を閉ざし、牀(寝床)に伏して泣きました。
一県(県中。征羌侯国中)の人が何があったのか分かりませんでした(または「どうすればいいか分かりませんでした」。原文「一県不知所為」)
 
これを聞いた范滂が言いました「私のためにこうしているに違いない(必為我也)。」
范滂は自ら獄を訪ねました。
県令郭揖が大いに驚いて范滂を出迎えました。県令の印綬を解いて共に逃亡しようと誘い、「天下は大きいのに子(あなた)はなぜここにいるのですか(天下大矣,子何為在此)」と言います。
范滂が言いました「滂(私)が死ねば禍が塞がります。どうして罪によって君(あなた)を巻き込むことができるでしょう(何敢以罪累君)。それに、老母に流離(流浪)させることになります。」
 
范滂の母が別れを告げに来ました。
范滂が母に言いました「仲博は孝敬なので供養(親を養うこと)するに足ります。滂(私)は龍舒君に従って黄泉に帰します。存亡(生者と死者)はそれぞれいるべき場所があります(存亡各得其所)。大人(あなた。母親)が忍び難い恩(不可忍之恩。捨てがたい恩。親子の情)を割くことを願います。悲傷を増す必要はありません(悲しむことはありません。原文「勿増感戚」)。」
仲博は范滂の弟です。龍舒君は范滂の父・范顕で、龍舒侯の相を勤めました。
 
母が言いました「汝は今、李李膺杜密)と名声を並べることができます(汝今得與李杜斉名)。死んで何を恨むのでしょう(死亦何恨)。既に令名(美名)があるのにまた寿考(長寿)を求めて、どちらも得ることができるでしょうか(可兼得乎)。」
范滂は跪いて母の教えを受け、再拝して別れを告げました。
その後、范滂が振り向いて自分の子に言いました「私は汝に悪を為させたいと欲するが、悪とは為してはならないものだ。私は汝に善を為させたいと欲するが、私は悪を為さなかった(吾欲使汝為悪,悪不可為。使汝為善,則我不為悪)。」
少し理解が困難です。先に後半を見た方が分かりやすいかもしれません。「(吾欲)使汝為善,則我不為悪」は「私は汝(子供)に善を行わせたいと欲する。しかし私は悪を行わなかった」です。子供に善を行わせたいと思うが、悪を行わなかった自分が結局獄に入れられて処刑されることになってしまったので、子供に善を行わせることが正しいのかどうかわからない、という気持ちを述べています。
前半の「吾欲使汝為悪,悪不可為」は「私は汝に悪を行わせたいと欲する。しかし悪は行ってはならない」です。当時、権勢を握っている者達のように悪を行えば、その身は安全で富貴を得ることもできます。だから子供にも悪を行わせたいと思うが、しかし悪はやはり行ってはならないことだと言っています。
 
道を行く人でこれを聞いて涙を流さない者はいませんでした。
後漢書党錮列伝(巻六十七)』によると、范滂は三十三歳でした。
 
党人の死者は合わせて百余人に上りました。妻子は皆、辺境に遷されます。
 
天下の豪桀や行義(品行道義)がある儒学の学者は全て宦官が党人とみなして弾劾しました。怨隙(怨恨対立)がある者がこれを機に互いに陥れ合い、睚眦の忿(目を見開く程度のわずかな怒り)があっただけでも制限なく党人の中に入れます。
州郡も朝廷の意向に迎合し、党人と交関(交流関係)がないのに禍毒を被った者もいました。
こうして党人に連座して死(死刑)(流刑)(罷免排斥)禁錮に遭った者もまた六七百人を数えました。
 
後漢書霊帝紀』はこう書いています「冬十月丁亥、中常侍侯覧が有司(官員)に示唆して元司空虞放、太僕杜密、長楽少府李膺司隷校尉朱瑀(朱㝢の誤りです)、潁川太守巴粛、沛相荀翌、河内太守魏朗、山陽太守翟超について上奏させた。皆、鉤党として獄に下された。死者は百余人に上り、妻子は辺境に遷された。(党人に)附従(依附服従した者は全て禁錮に処され、五属(五服内の親族。五服は自分を一代として父、祖父、曾祖父、高祖父に至る五代の親族です)に及んだ。制詔(皇帝の命令)によって州郡に鉤党を大挙(大検挙)させた。そのため、天下の豪桀および儒学儒学の学者)で義を行った者が全て関係付けられて党人とされた(一切結為党人)。」
『孝霊帝紀』は犠牲になった者の中に「巴粛」の名を挙げていますが、『資治通鑑』では前年に誅殺されています。
 
この事件を「第二次党錮の禁」「第二次党錮事件」といいます(「第一次」は桓帝延熹九年166年です)
 
 
 
次回に続きます。