東漢時代275 霊帝(十) 張倹の逃走 169年(4)

今回も霊帝建寧二年の続きです。
 
[(続き)] 『資治通鑑』に戻ります。
郭泰は党人の死を聞いて秘かに慟哭し、こう言いました「『詩(大雅瞻卬)』はこう言っている『人才を失ったら国が困窮する(人之云亡,邦国殄瘁)。』漢室は滅ぶだろう。ただ烏が誰の屋根に止まるのかを知らないだけだ。」
最後の部分の原文は「但未知瞻烏爰止,于誰之屋耳」で、「瞻烏爰止,于誰之屋(烏がここに止まるのを見る。誰の屋根においてか)」は『詩経小雅正月』の一句です。
烏は王業を象徴しています。郭泰は「漢室はもうすぐ滅ぶ。王業が次にどこに行くかが分からないだけだ」と言っています。
尚、『後漢書郭符許列伝(巻六十八)』では陳蕃と竇武が死んでから郭泰がこの言葉を発していますが、『欽定四庫全書後漢(袁宏)』では三君八雋(八俊)の死に対して慟哭し、この発言をしています。『資治通鑑』は『後漢記』に従っています(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
郭泰は人才の評価(臧否人倫)を好みましたが、厳しいほど直接的で詳細な言論(危言覈論)をしなかったため、濁世(汚濁した世の中)に身を置くことができて、怨禍が及びませんでした。
 
張倹は亡命して困迫(困窮)し、人の家を見つけるごとに宿泊を請いました(原文「望門投止」。門を見つけたら投じて宿泊を請うことで、困窮を表します)
張倹の名行(名声と徳行)を尊重しない者はなく、皆、家を危険にさらしてでも張倹を受け入れました(破家相容)
後に転々として東莱に至り、李篤の家に泊まった時、外黄令毛欽が武器を持って門前に来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、外黄県は陳留郡に属し、黄県は東莱郡に属すので、毛欽は「黄県令」が正しいようです。
李篤は毛欽を招き入れて席に着かせるとこう言いました「張倹は罪を負って亡命しています。篤(私)がどうして彼を隠せるでしょう(篤豈得臧之)。たとえ本当にここに居るとしても、この人は名士です。明廷(明府。県令)はどうして彼を捕えるべきなのでしょうか(明廷寧宜執之乎)。」
毛欽は立ちあがって李篤を撫で(恐らく、軽く肩等を叩いたのだと思います。原文「因起撫篤」)、こう言いました「蘧伯玉は独りで君子でいることを恥とした。足下はどうして仁義を専取するのだ(独りで仁義を得ようとするのだ)。」
李篤が言いました「今、これを分けようと欲しています。明廷が(仁義の)半分を負うことになりました(『資治通鑑』では「載半去矣」ですが、『後漢書党錮列伝』では「載其半矣」です。ここは『党錮列伝(巻六十七)』に従いました)。」
毛欽は嘆息して去りました。
李篤は張倹を案内して北海の戲子然(『資治通鑑』胡三省注によると、戲は伏戲氏の後代です)の家を経由し、漁陽に入ってから塞外に出ました。張倹が通った場所で重誅(死刑)に伏した者は十人を数え、連座して逮捕審問に遭った者は天下に遍きます。彼等の宗親も全て殄滅(誅滅)され、郡県がこのために残破(破滅。崩壊)しました。
 
張倹は魯国の人孔襃と旧交があったため、亡命中に孔襃の家を訪ねましたが、会えませんでした。
孔襃の弟孔融はこの時、十六歳でしたが、張倹を匿いました。
後にこの事が漏れました。張倹は逃走できましたが、魯の国相が孔襃と孔融を逮捕して獄に送ります。
しかし国相はどちらを罰するべきか判断できませんでした(未知所坐)
そこで孔融が言いました「受け入れて匿ったのは融(私)です。(私が)罪に坐すべきです(保納舍藏者融也,当坐)。」
孔襃が言いました「彼は私に救いを求めに来ました(彼来求我)。弟の過ちではありません。」
吏が母に問うと、母はこう言いました「家の事は長に任せるものです。妾(私)がその辜(罪)に当たります(家事任長,妾当其辜)。」
一門が死を争ったため、郡県の官員は躊躇して決断できず、朝廷に報告して判決を請いました(上讞之)
その結果、霊帝詔書を発して孔襃の罪としました詔書竟坐襃)
資治通鑑』と『後漢書鄭孔荀列伝(七十)』は孔襃がどうなったかを明記していませんが、処刑されたと思われます。
 
後に党禁が解かれたため、張倹はやっと郷里に還りました。
更に後に衛尉になり、八十四歳で死にます。
後漢書党錮列伝』によると、建安年間初期、張倹が朝廷に召されて衛尉に任命されました。張倹はやむなく起ちあがります。しかし曹氏の世徳(代々の徳行)が芽生えていたため(曹氏が台頭し始めていたため。原文「世徳已萌」)、門を閉じて車を高く掲げ(闔門懸車)、政事に関与しませんでした。一年余後に許で死にました。
 
夏馥は張倹の亡命について聞くと、嘆息してこう言いました「孽(害悪。罪)を自分で作りながら、空しく良善の者を汚している(孽自己作,空汙良善)。一人が死から逃げて、禍が万家に及んでいる。何をもって生きるのか(そうまでして生きる必要があるのか。原文「何以生為」)。」
夏馥は自ら髭を切って外貌を変え、林慮山の中に入り、姓名を隠して冶家(金属を鋳造する家)の傭人になりました。自ら煙炭(煙火)に向かい(原文「親突煙炭」。誤訳かもしれません)、形貌(容貌)が毀瘁(憔悴)したため、二、三年も経つと知る人がいなくなります。
夏馥の弟夏静が車に縑帛(絹)を載せて夏馥を追い求め、それらを贈ろうとしましたが(追求餉之)、夏馥は受け取らずに「弟はなぜ禍を車に載せて贈りに来るのだ(弟柰何載禍相餉乎)」と言いました。
夏馥は党禁が解ける前に死にました。
 
 
 
次回に続きます。