東漢時代276 霊帝(十一) 袁氏 169年(5)
後に党人が誅殺されることになりましたが、張讓は陳寔との事があったため、多くの人を寛恕しました(讓以寔故多所全宥)。
そこで姓名を変えて(南陽と)汝南の間に隠れ、袁紹と奔走の友(互いに奔走して助け合える友。『資治通鑑』では「奔走之交」ですが、『後漢書・党錮列伝』では「奔走之友」です。ここは『党錮列伝』に従いました)になりました。
何顒はしばしば秘かに雒陽に入り、袁紹に従って計議しました。諸名士で党事(党人の獄)に遭った者のために救援を求め、権計(謀計)を設けて逃隠(逃げ隠れ)できるようにします。そのおかげで禍から逃れて身を守った者が大勢いました。
袁逢と袁隗はどちらも名称(名声)があり、若い頃から顕官(顕要な官。高官)を経歴しました。
当時、中常侍・袁赦(『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』は「袁朗」としていますが、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(袁張韓周列伝・巻四十五)』に従って「袁赦」としています)は袁逢と袁隗が宰相の家系で、しかも自分と同姓だったため、二人を推崇(推薦・尊重)して外援(宮外の友好的な勢力)にしました。そのおかげで袁氏は当世の貴寵を得て甚だ富奢になり、他の三公の家族と差が生まれました。
袁紹は壮健で威容があり、士を愛して名声を得ました(愛士養名)。賓客が四方から集まって袁紹に帰心し(輻湊帰之)、輜輧・柴轂(「輜」は屋根がついた車、「輧」は車体が囲まれた車で、どちらも裕福な者が乗る車です。「柴轂」は「柴車」ともいい、貧しい者が乗る車です)が街陌(街道)を埋めます。
『資治通鑑』は採用していませんが、『三国志・魏書・董二袁劉伝(巻六)』の注には「袁紹は袁逢の庶子で、袁術の異母兄である。(袁紹が家を)出てから、袁成が(袁紹を)子(養子)にした(出後成為子)」「(袁紹は家を)出て伯父・袁成の後を継いだ(出後伯父成)」とあります。
『資治通鑑』に戻ります。
袁術も侠気によって名が知られていました。
袁逢の従兄の子・袁閎(『後漢書・袁張韓周列伝』によると、袁閎の父は袁賀、祖父は袁彭といい、袁彭の弟が袁湯です。袁逢は袁湯の子なので、袁閎は袁逢の従兄の子になります)は若い頃から操行(節操・品行)があり、耕学(農耕と学問)を業としていました。
袁逢や袁隗がしばしば食糧等を送りましたが、受け取ったことがありません。
袁閎は世の中が険乱になっているのに家門が富盛な様子を見て、常に兄弟に対して嘆いてこう言いました「我が先公の福祚(福禄)を後世は徳によって守ることができず、逆に競って驕奢を為し、乱世と権を争っている。これでは晋の三郤と同じだ(此即晋之三郤矣)。」
党事(党錮事件)が起きると、袁閎は深林に逃げようとしましたが、母が老齢だったため、遠くに逃げるべきではないと考えました。そこで四周を囲んだだけで戸がついていない土室を庭に築きました(築土室四周於庭不為戸)。
飲食は窓から受け取り、母が袁閎を想った時は窓まで会いに行きましたが、母が去ったら自分で窓を閉めて兄弟も妻子も会えなくしました。
しかし申屠蟠だけは嘆いてこう言いました「昔、戦国の世では庶士が横議(自由に議論すること)し、列国の王には擁篲先駆(箒を持って道を清め、賓客を案内すること)する者までいたが、最後は坑儒焼書(焚書坑儒)の禍があった。今の事をいっているのだ(今と同じだ。原文「今之謂矣」)。」
申屠蟠は梁・碭の間で姿を隠し、樹木で家を建てて傭人と同じように生活しました。
その二年後に范滂等が党錮の禍を被りましたが、申屠蟠だけは超然として評論(批評、議論)から免れることができました。
十一月、太尉・劉寵を罷免し、太僕・扶溝の人・郭禧を太尉にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、郭禧の字は公房です。
暫くして病が治ったため(疾瘳)、曹節は印綬を返上して中常侍に戻りました。但し、位は特進となり、秩は中二千石になります(『後漢書・百官志三』によると、中常侍の秩は千石でしたが、後に秩比二千石に増やされました。中二千石は比二千石より上になります)。
高句驪王・伯固が遼東を侵しましたが、玄菟太守・耿臨が討伐して降しました。
次回に続きます。