東漢時代278 霊帝(十三) 竇太后の死 172年(1)

今回は東漢霊帝熹平元年です。二回に分けます。
 
東漢霊帝熹平元年
壬子 172
 
[] 『資治通鑑』からです。
春正月、車駕(皇帝)が原陵光武帝陵)を祀りました(車駕上原陵)
 
司徒掾陳留の人蔡邕が言いました「私は、古は墓祭を行わなかったと聞いていたので、朝廷に上陵の礼(陵墓を祀る儀礼があるものの、始めは損なってもいい(儀式の内容を削減してもいい)と思っていた。しかし今、(祭祀の)威儀を見てその本意を察し、孝明皇帝の至孝惻隠(至孝と心痛悲哀)を知ることができた(明帝永平元年58年に明帝が原陵を祀ってから、その儀式が慣例になりました)。易奪(改変)してはならない。礼には煩(煩雑)でありながら省いてはならないものがあるが、これを言っているのだ(礼有煩而不可省者此之謂也)。」
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
三月壬戌(初八日)、太傅胡広が死にました。八十二歳でした。
 
胡広は四公(太傅、太尉、司徒、司空)を周流(本来は「周游」の意味ですが、ここでは「経歴」の意味だと思います)して三十余年になり(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。胡広は順帝漢安元年142年)に司空になりました。本年で三十一年(足掛け)になります)、六帝(安帝、順帝、沖帝、質帝、桓帝霊帝に仕えてきました。
(皇帝からの)礼任(礼遇信任)が極めて優厚で、たとえ罷免されても一年もせずにすぐまた升進しました。
胡広が招聘した者の多くは天下の名士で、故吏(自分の元部下)の陳蕃、李咸と並んで三司(三公)になったこともあります。
故事に練達(習熟)しており、朝章(朝廷の典章制度)に明解だったため、京師でこう言われるようになりました「万事で処理できないことがあったら伯始(胡広の字です)に問え。天下の中庸(偏りがなく公正なこと)には胡公がいる(万事不理問伯始。天下中庸有胡公)。」
但し、胡広は温柔(温厚柔和)かつ謹(慎重朴質)な性格で、遜言(謙虚な言葉。または巧言)や恭色(恭しい態度)によって時世に媚びており、忠直の気風がなかったため、天下に軽視されました(天下以此薄之)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
五月己巳(十六日)、天下に大赦し、建寧五年から熹平元年に改元しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
長楽太僕侯覧が専権驕奢の罪に坐しました。
霊帝が策書を発して侯覧印綬を回収します。
侯覧は自殺しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、長楽太僕は太后宮の官です。車馬を管理し、宦者が担当しました。秩は二千石です。
 
[] 『『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
六月、京師で大水(洪水)がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
太后の母が比景流刑地で死にました。竇太后が憂愁して病を患います(憂思感疾)
癸巳(初十日)、竇太后が雲台で死にました。
 
宦者は竇氏に対する怨みが積もっていたため、衣車(衣服を運ぶ車)太后の死体を載せて城南の市舍(市中の客舎)に数日置きました。曹節と王甫は貴人の礼で殯(埋葬前の一定期間、霊柩を安置すること)を行おうとします。
しかし霊帝がこう言いました「太后は自ら朕の躬(身)を立てて大業を統承(継承)させた。どうして貴人として終わらせることができるか(豈宜以貴人終乎)。」
霊帝は喪を発して(太后としての)礼を成しました。
 
曹節等は竇太后桓帝と別葬させて、馮貴人桓帝の貴人)桓帝に配祔(合祀。合葬)させたいと欲しました。
霊帝は詔を発して公卿を朝堂に集め、中常侍趙忠に議論を監督させます。
太尉李咸はこの時、病を患っていましたが、なんとか起ちあがると、椒(毒の一種)を砕いて携帯し(原文「扶輿而起擣椒自隨」。「扶輿」は「扶於」とも書き、「なんとか行動する」という意味です)、妻子にこう言いました「もしも皇太后桓帝に配食できないようなら桓帝と共に祀られないのなら)、わしは生きて還らない(吾不生還矣)。」
 
討議が始まりました。坐っている者は数百人いますが、互いに久しく眺めあうだけで、誰も先に発言しようとしません。
趙忠が言いました「討議は速く決定するべきです(議当時定)。」
廷尉陳球が言いました「皇太后は徳が盛んで良家だったので、母として天下に臨みました。先帝に配すべきであり、疑うことはありません。」
趙忠が笑って言いました「陳廷尉はすぐに筆を持つべきです(今ここで見解を書き記すべきです。原文「宜便操筆」)。」
陳球はすぐに自分の意見を書いてこう言いました「皇太后は元から椒房(皇后の部屋)におり(自在椒房)、聡明母儀の徳(聡明な母として模範になる徳行)がありました。不孝な時に遭遇したら桓帝崩御したら。原文「遭時不造」)、聖明(陛下)を援立して宗廟を承継させました。その功烈(功績)は至重です。しかし先帝が晏駕崩御してから大獄に遇ったため、空宮に遷り住み、不幸にも早世しました。確かに家(家族)は罪を獲ましたが、太后の事ではありません(事非太后。今もし別葬したら、誠に天下の望を失うことになります(天下を失望させます)。また、馮貴人の冢はかつて発掘(盗掘)されており、骸骨が暴露しています。賊と尸を並べたら(賊に侵された尸を桓帝と並べたら。原文「與賊倂尸」)、魂霊も汚染されます。そもそも国に対して功がないのに、なぜ上は至尊(皇帝)と配すべきなのでしょうか。」
 
資治通鑑』胡三省注によると、段熲が河南尹だった時、馮貴人の墓が盗掘されたため、段熲は諫議大夫に左遷されました。
後漢書皇甫張段列伝(巻六十五)』を見ると、段熲は建寧三年170年)に侍中になり、執金吾を経て河南尹になりましたが、盗賊が馮貴人の墓を盗掘したため、諫議大夫に左遷されました。本年に司隸校尉になります(下述)
本年は霊帝熹平元年172年)なので、馮貴人の墓はこの一二年の間に盗掘されたようです。
 
趙忠は陳球の意見を読むと顔色を変えましたが、すぐに嘲笑してこう言いました(原文「作色俛仰蚩球曰」。「俛仰」は頭を上下させることだと思いますが、よく分かりません)「陳廷尉がこの議(意見)を建てたのは非常に高明だ(とても立派な意見だ。原文「陳廷尉建此議甚健」)。」
陳球が言いました「陳竇が既に冤罪を被り(陳竇既冤)、皇太后が理由なく幽閉されたので、臣は常に心を痛め、天下も憤歎(憤慨嘆息)しています。今日これを語り、退いて罪を受けたとしても、宿昔の願いです(かねてからの願いです)。」
 
李咸もこう言いました「臣も元からそうするべきだと思っていました。誠に同じ意見です(臣本謂宜爾,誠與意合)。」
李咸の発言によって公卿以下の群臣が皆、陳球の意見に従いました。
しかし曹節と王甫はまだ反対してこう言いました「梁后は家が悪逆を犯したので懿陵に別葬されました(梁后は桓帝の皇后で、桓帝より先に死に、懿陵に埋葬されました。梁冀が誅殺されてから陵が廃されて貴人の冢(墓)にされます。桓帝は死後、宣陵に埋葬されました)武帝は衛后を黜廃して李夫人を配食しました(戾太子の乱が起きたため、武帝が太子の母衛后を廃し、衛后は自殺しました。武帝の死後、霍光が李夫人を武帝に配食させました)。今、竇氏の罪は深いのに、どうして先帝と合葬できるでしょう。」
李咸が上書しました「臣が伏して思うに、章徳竇后(章帝の皇后竇氏)は恭懐(梁貴人。和帝の母)を虐害し、安思閻后(安帝の皇后閻氏)は家が悪逆を犯しましたが、和帝には異葬の議がなく、順朝(順帝の朝廷)にも貶降の文がありませんでした。衛后に至っては、孝武皇帝の身が廃棄したことなので武帝が生前に自ら皇后を廃したので)、比べるべきではありません孝武皇帝身所廃棄不可以為比)。今、長楽太后(竇太后は尊号がその身にあり太后の地位を廃されておらず)、かつては自ら称制しました。しかも聖明を援立して皇祚皇位。帝統)を光隆させたのです。太后が陛下をわが子としたのに、陛下はどうして太后を母とせずにいられるでしょう。子は母を廃すことがなく、臣は君を貶めることがないものです(子無黜母,臣無貶君)。宣陵に合葬して全て旧制の通りにするべきです。」
上奏文を読んだ霊帝は李咸と陳球の意見に従いました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、袁宏の『後漢紀』はこう書いています。
河南尹李咸が薬(毒薬)を持って上書しました「昔、秦始皇が母后を幽閉しましたが、茅焦の言に感じ入り、すぐ車に乗って母を迎え、以前のように供養しました(立駕迎母供養如初)。秦后の悪と始皇の悖(道理から外れていること)によっても、なお直臣の語を採用し、母子の恩を失いませんでした。皇太后は罪によって没したのではないのでなおさらです。(竇太后を別葬したら)陛下の過ちが始皇より重くなります(陛下之過有重始皇)。臣は謹んで左手に章(上奏文)を携え、右手に薬を持ち、宮闕を訪ねて自ら上奏します(詣闕自聞)。もしも省みられないようなら、臣は鴆(毒)を飲んで自裁(自殺)し、下で先帝に覲見して詳しく得失を述べます。」
上奏文を読んだ霊帝はこの言葉に感じ入り、改めて公卿に討議させました。
そこで廷尉陳球が意見を書いて提出しました。
 
以上のように『後漢記』の記述は上述の内容と異なります。『資治通鑑』は『後漢書張王种陳列伝(巻五十六)』に従っています。
 
秋七月甲寅(初二日)、桓思皇后(竇太后を宣陵に埋葬しました。
 
 
 
次回に続きます。