東漢時代280 霊帝(十五) 師遷の上奏 173年
癸丑 173年
春正月、大疫に襲われました。
朝廷が使者を派遣して巡行させ、医薬を届けました。
丁丑(二十七日)、司空・宗俱が死にました。
光禄勳・楊賜を司空に任命しました。
三月、太尉・李咸を罷免しました。
沛相・師遷(人名です)が国王を誣罔(誣告)した罪に坐し、獄に下されて死にました。
劉寵は陳孝王・劉承(安帝延光三年・124年)の子で、明帝の子孫です。『後漢書・孝明八王列伝(巻五十)』と『補後漢書年表(巻二)』を見ても、いつ劉承が死んで劉寵が継いだのかは書かれていません(『孝明八王列伝』の記述は「(頃王崇)立五年薨。子孝王承嗣。承薨,子愍王寵嗣」と書かれているだけで、劉承の在位年数が分かりません)。
熹平二年(本年)、(陳の)国相・師遷が、「以前の陳相・魏愔と劉寵が共に天神を祭り、抱くべきではない希望を抱いて(帝位を望んで。原文「希幸非冀」)、罪が不道に至っています」と追奏(過去にさかのぼって上奏すること)しました。
有司(官員)が使者を送って事件を調査するように上奏します。
しかし当時は勃海王・劉悝が誅殺されたばかりだったため(前年)、霊帝は陳王に法を加えるのが忍びず、詔を発して檻車で魏愔と師遷を運び、北寺詔獄に送りました。中常侍・王酺(王甫)と尚書令、侍御史に共同で審問させます。
魏愔は「王と共に黄老君を祭って長生の福を求めただけであり、他の冀幸(望み)はない」と証言しました。
王酺等は「魏愔の職は匡正にあるのに(王を正すことが職責なのに)、行いが不端(不当。不誠実)でした。師遷は自分の王を誣告し、不道として偽りました(罔以不道)」と上奏しました。
二人とも誅殺されます。
しかし劉寵は詔によって赦され、追及を受けませんでした。
六月、北海で地震がありました。
東莱と北海の海水が溢れました。
『孝霊帝紀』の注によると、この時、二尾の大魚が現れました。それぞれ長さ八九丈、高さ二丈余もありました。
秋七月、司空・楊賜を罷免し、太常・潁川の人・唐珍を司空にしました。
冬十二月、日南徼外(界外)の国が通訳を重ねて貢献しました。
太尉・段熲を罷免しました。
癸酉晦(二十九日)、日食がありました。
次回に続きます。