甲寅 174年
春正月、夫餘国が使者を送って貢献しました。
太常・東海の人・陳耽を太尉に任命しました。
『孝霊帝紀』の注によると、陳耽の字は漢公といいます。
三月、中山王・劉暢(穆王)が死にました。子がいなかったため、国が除かれました。
中山王は光武帝の子・劉焉(簡王)から始まり、夷王・劉憲、孝王・劉弘、穆王・劉暢と継承されました。
『孝霊帝紀』が「三月、中山王・暢が死に、子がいなかったため国が除かれた」と書いており、『資治通鑑』はこれに従っています。
しかし『後漢書・光武十王列伝(巻四十二)』には「劉暢は立って三十四年で死に、子の節王・劉稚が継いだが、子がいなかったため国が除かれた」とあります。劉稚がいつ死んだかは明らかにしていません。
霊帝の実父は解瀆亭侯・劉萇ですが、帝位に即いて桓帝の後を継承したため、父・劉萇を継ぐ者がいなくなりました。
夏六月、河閒王(河間王)・劉利の子・劉康を済南王に封じて孝仁皇(霊帝の父・劉萇)の祭祀を奉じさせました。
河間王は章帝の子・劉開(河間孝王)の家系です。劉開の後、恵王・劉政、貞王・劉建と継ぎ、安王・劉利の代になりました。
劉開には劉淑という子がおり、解瀆亭侯になりました。劉淑の子が劉萇、劉萇の子が霊帝です。
済南王は本来、光武帝の子・劉康(安王)の家系で、安帝延光四年(125年)に孝王・劉香が死んで子がいなかったため廃されていました。
秋、洛水(雒水)が溢れました。
冬十月癸丑、天下の繋囚(囚人)で罪(刑)が決していない者に命じ、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
呉郡司馬・富春の人・孫堅が精勇を召募(募集)して千余人を得ました。州郡を助けて許生を討ちます(許生の挙兵に関しては霊帝熹平元年・172年参照)。
『資治通鑑』胡三省注によると、郡には丞と長史がいましたが、司馬の官はないはずです。当時は群盗が蜂起していたため、司馬を置いて兵事を担当させていたようです。
富春県は呉郡に属します。晋代になってから、簡文帝が母・鄭太后の諱(実名。鄭阿春)を避けて富陽に改名しました。
冬十一月、揚州刺史(『孝霊帝紀』は「楊州刺史」としていますが、「揚州」の誤りです)・臧旻が丹陽太守・陳寅を率いて(孫堅も従っています)会稽で許生を大破し、斬りました。
孫堅については、別の場所で『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』を元に紹介します。
任城王・劉博が死に、子がいなかったため国が廃されました。
『後漢書・光武十王列伝(巻四十二)』『補後漢書年表』とも、劉博の諡号を書いていません。
桓帝延熹四年(161年)に河間孝王・劉開の子に当たる参戸亭侯・劉博を任城王に封じて任城孝王・劉尚の家系を継がせました。河間孝王・劉開は章帝の子で、桓帝の祖父です。
任城孝王・劉尚は東平王・劉蒼(「献王」。または「憲王」。光武帝の子)の子で、章帝元和元年(84年)に封王されました。劉尚の後、貞王・劉安、節王・劉崇と継ぎましたが、桓帝元嘉元年(151年)に劉崇が死に、子がいなかったため廃されていました。
十二月、鮮卑が北地に入りましたが、北地太守・夏育が屠各(部族)を率いて追撃し、これを破りました。
司空・唐珍が罷免され、永楽少府・許訓が司空になりました。
次回に続きます。