東漢時代281 霊帝(十六) 孫堅登場 174年

今回は東漢霊帝熹平三年です。

東漢霊帝熹平三年
甲寅 174
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
春正月、夫餘国が使者を送って貢献しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
二月己巳(十六日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
太常東海の人陳耽を太尉に任命しました。
『孝霊帝紀』の注によると、陳耽の字は漢公といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月、中山王劉暢(穆王)が死にました。子がいなかったため、国が除かれました。
 
中山王は光武帝の子劉焉(簡王)から始まり、夷王劉憲、孝王劉弘、穆王劉暢と継承されました。
『孝霊帝紀』が「三月、中山王暢が死に、子がいなかったため国が除かれた」と書いており、『資治通鑑』はこれに従っています。
しかし『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』には「劉暢は立って三十四年で死に、子の節王劉稚が継いだが、子がいなかったため国が除かれた」とあります。劉稚がいつ死んだかは明らかにしていません。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
霊帝の実父は解瀆亭侯・劉萇ですが、帝位に即いて桓帝の後を継承したため、父・劉萇を継ぐ者がいなくなりました。
夏六月、河閒王(河間王)劉利の子劉康を済南王に封じて孝仁皇霊帝の父劉萇)の祭祀を奉じさせました。
 
河間王は章帝の子劉開(河間孝王)の家系です。劉開の後、恵王劉政、貞王劉建と継ぎ、安王劉利の代になりました。
劉開には劉淑という子がおり、解瀆亭侯になりました。劉淑の子が劉萇、劉萇の子が霊帝です。
済南王は本来、光武帝の子劉康(安王)の家系で、安帝延光四年125年)に孝王劉香が死んで子がいなかったため廃されていました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
秋、洛水(雒水)が溢れました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
冬十月癸丑、天下の繋囚(囚人)で罪(刑)が決していない者に命じ、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
呉郡司馬富春の人孫堅が精勇を召募(募集)して千余人を得ました。州郡を助けて許生を討ちます(許生の挙兵に関しては霊帝熹平元年172年参照)
 
資治通鑑』胡三省注によると、郡には丞と長史がいましたが、司馬の官はないはずです。当時は群盗が蜂起していたため、司馬を置いて兵事を担当させていたようです。
富春県は呉郡に属します。晋代になってから、簡文帝が母太后の諱(実名。鄭阿春)を避けて富陽に改名しました。
 
冬十一月、揚州刺史(『孝霊帝紀』は「楊州刺史」としていますが、「揚州」の誤りです)臧旻が丹陽太守陳寅を率いて孫堅も従っています)会稽で許生を大破し、斬りました。
 
孫堅については、別の場所で『三国志呉書一孫破虜討逆伝』を元に紹介します。

東漢時代 孫堅登場


[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
任城王劉博が死に、子がいなかったため国が廃されました。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』『補後漢書年表』とも、劉博の諡号を書いていません。
 
桓帝延熹四年161年)に河間孝王劉開の子に当たる参戸亭侯劉博を任城王に封じて任城孝王劉尚の家系を継がせました。河間孝王劉開は章帝の子で、桓帝の祖父です。
任城孝王劉尚は東平王劉蒼(「献王」。または「憲王」。光武帝の子)の子で、章帝元和元年84年)に封王されました。劉尚の後、貞王劉安、節王劉崇と継ぎましたが、桓帝元嘉元年151年)に劉崇が死に、子がいなかったため廃されていました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
十二月、鮮卑が北地に入りましたが、北地太守夏育が屠各(部族)を率いて追撃し、これを破りました。
夏育は護烏桓校尉に遷されました。
 
鮮卑がまた并州を侵しました。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
司空唐珍が罷免され、永楽少府許訓が司空になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、永楽少府は董太后宮の官です。
 
 
 
次回に続きます。