東漢時代 孫堅登場

霊帝熹平三年174年)孫堅が会稽討伐に参加して功績を上げました。

東漢時代281 霊帝(十六) 孫堅登場 174年

 

ここでは『三国志呉書一孫破虜討逆伝』の本文と裴松之の注を元に孫堅について紹介します。

 
孫堅は字を文台といいます。呉郡富春の人で、恐らく孫武の後代です。
孫堅の家は代々呉に仕え、家は富春にあり、(先祖は)城東に埋葬されました。
ある時、冢(墓)の上にしばしば光怪(光の怪現象)が現れ、雲気が五色になり、上は天に連なって数里に蔓延しました。衆人が皆、それを観に行きます。
父老が互いに「これは凡気(普通の気)ではない(是非凡気)。孫氏が興るだろう(孫氏其興矣)」と言いました。
孫堅の母が懐妊すると、夢の中で腸が腹から出て呉昌門に巻きつきました。母は目が覚めてから懼れて鄰母(隣家の老婦)に告げます。
鄰母はこう言いました「どうして吉徴(吉兆)ではないと分かるのですか(安知非吉徵也)。」
孫堅が生まれると、容貌は非凡、性格は闊達で、奇節(奇特な節操)を好みました。
 
孫堅は若くして県吏になりました。
十七歳の時、父と共に船に乗って銭唐に到りました。
するとちょうど海賊胡玉等が匏里(地名)から陸に上がり、賈人(商人)の財物を奪い取って岸の上で分けていました。
行旅(旅人)は皆、立ち往生し、船も進めなくなります。
孫堅が父に言いました「この賊は撃てます。これを討つことを請います(此賊可撃,請討之)。」
父は「汝が図るところではない(汝が為すべき事ではない。汝の手に負えることではない。原文「非爾所図也」)」と言いましたが、孫堅は前に進むと刀を持って岸に上がり、手を振って東西を指し示し(以手東西指麾)、人兵(士兵)を分部(分派。配置)して賊を羅遮(包囲)しているように見せました。
遠くからそれを眺めた賊は官兵が捕まえに来たと思い、急いで財物を棄てて逃げ散ります。
孫堅は賊の後を追い、首級一つを斬って還りました。
孫堅の父は大いに驚きました。
この一件があったため孫堅の名が広く知られるようになり、府が召して假尉(恐らく仮の県尉です)に任命しました。
 

後に会稽の妖賊許昌が句章で挙兵し、陽明皇帝を自称しました。その子許韶が諸県を扇動して部衆が万を数えます。

孫堅は郡司馬として精勇を募召(募集)し、千余人を得ました。州郡と合流して討伐し、これを破ります。
『孫破虜討逆伝』は「この年は熹平元年172年)である」としていますが、熹平元年は許昌等が挙兵した年で、平定されたのは熹平三年174年)の事です。
 
刺史臧旻が孫堅の功状を列挙して朝廷に上書しました。
霊帝詔書を発して孫堅を塩瀆丞(県丞)に任命します。数年後には盱眙丞に遷され、更に下邳丞に遷されました。
 
孫堅は三県の佐(県丞)を歴任して至る所で称えられ、吏民が親しんで従いました。
郷里の旧知や事を好む若者(時事を好んだり、事業・事績を求める若者。原文「好事少年」)で、往来する者が常に数百人いましたが、孫堅は彼等を受け入れて厚くもてなし(接撫待養)、子弟に対するようでした。