東漢時代282 霊帝(十七) 三互法 175年(1)
乙卯 175年
石碑が建てられたばかりの時、見物に来た者や模写に来た者の車が一日千余輌に上り、街陌(街路)を埋めました。
『資治通鑑』胡三省注によると、太学は雒陽城南の開陽門外にありました。講堂は長さ十丈、広さ二丈です。堂の前に四十六枚の『石経』がありました。西に『尚書』『周易』『公羊伝』合わせて二十八碑、南に『礼記』十五碑、東に『論語』三碑です。
胡三省が更に詳しく解説していますが省略します。
以前、州郡が互いに徒党を組み、私心・親情によって結びついていたため(州郡相党人情比周)、朝議で制度を作り、婚姻関係にある家や二州の人士は互いの州を監臨(監督)することができないようにしました。
『資治通鑑』胡三省注は「三互」について「婚姻関係の家および二州の人は互いに官に就くことができない」と書いていますが、「三互」の解説にはなっていないようです。
「三互法」は詳細がはっきりせず、いくつかの説が存在しますが、ここでは白寿彝の『中国通史・第四巻・秦漢時期(上冊)』を元に解説します。
漢代の地方官の任用に関しては、主に籍貫(戸籍)における制限がありました。西漢武帝より前はまだこのような制限がありませんでしたが、武帝の中期以降、地方の長官は明らかに本籍を回避し始め、明確な法令はないものの事実上は本籍の人を用いなくなりました。例えば州の刺史は本州の人を用いず、郡国の守相は本郡・本国の人を用いず、県の令長や丞尉は本県だけでなく本郡の人も用いなくなります。但し、西漢時代の司隷校尉、京兆尹、長安令、丞尉には例外があります。
また、郡県の属官佐吏は、三輔以外では全て本籍の人を用いました。郡の督郵も本郡の人を用いましたが、監督する諸県の人は避けました。州が管轄する郡の従事も本州の人を用いましたが、担当する郡の人は避けました。
東漢時代になると、地方長官の籍貫に対する制限がますます厳しくなり、京畿も例外なく本籍の人を避けるようになりました。
更には二州をまたいで婚姻関係を結んだ家も互いの州を監臨できず、二州の人士が互いの州を監臨することもできなくなりました。例えば甲州の者が乙州で刺史になったら、乙州の者は甲州で刺史になることができません。
例えば史弼は陳留考城の人で、妻は山陽巨野の人でした。朝廷は史弼を山陽太守に任命しましたが、三互法を理由に平原相に遷しました。
「三互法」から離れますが、漢代は宗室、外戚、宦官に対しても制限がありました。『中国通史』から併せて紹介します。
宗室、外戚、宦官は皇帝と特殊な関係にあり、往々にして政権に対して大きな影響力を持ったため、皇帝は彼等に対して意識的に制限を加えていました。例えば劉歆が河内太守になった時、宗室が三河を管理するのは相応しくないという理由で五原太守に遷されました。漢代は河東、河内、河南三郡を三河といい、天下の重地としていたので、宗室が帝位を窺うことを防ぐため、「宗室が三河を管理するのは相応しくない」とみなしました。これが宗室に対する制限です。
また、「王舅(皇帝の母の兄弟)は九卿に備わるべきではない」「后宮の家は封侯されて政治に関与してはならない」等の外戚に対する制限や、「旧典によると、中官(宦官)の子弟は牧人の職(民を治める職)になってはならない」「旧典によると、中臣の子弟は権勢を持つ位に居てはならない」等の宦官に対する制限がありました。
『資治通鑑』に戻ります。
蔡邕が上書しました「伏して見るに、幽・冀は旧壤(古い地)で鎧・馬を産出しますが、連年の兵饑(兵禍と飢饉)でしだいに空耗(空虚消耗)しています(比年兵饑漸至空耗)。今では職が欠けて(刺史が欠員になって)時を経ており、吏民が首を延ばして待ち望んでいます(闕職経時吏民延属)。しかし三府の選挙は月を越えても決定しません。臣が怪しんでその理由を問うと、三互を避けているといいます。十一州に禁(禁令)があるのに、この二州だけが該当しています(当取二州而已)。また、この二州の士は、あるいは歳月(年齢。経験年数)を制限の理由にされ、(人選が)躊躇して停滞したままになっています(或復限以歳月,狐疑遅淹)。そのため、両州が懸空(空虚)になり、万里が蕭條(静寂零落な様子)として管繋(管轄・管理)する者がいません。(臣の)愚見では、三互の禁とは禁の薄なものです(最も軽い禁令です。重要ではない禁令です)。今は威霊を顕示し、憲令を明らかにさえすれば、互いの州を担当させても(原文「対相部主」。『資治通鑑』胡三省注が「対相部主」は「冀州の人を幽州の刺史に任命し、幽州の人を冀州の刺史に任命することだ」と解説しています)、畏懼して私利を計ることがありません(畏懼不敢営私)。いたずらに(重要ではない)三互の禁令を設けて、自ら停滞・隔絶を生む必要があるのでしょうか(この部分は『後漢書・蔡邕列伝(巻六十下)』を参考にしました。原文は『而当坐設三互,自生留閡邪』です。『資治通鑑』は「況乃三互何足為嫌」ですが、理解が困難です)。昔、韓安国は徒中(囚人の中)から起用され、朱買臣は幽賎(微賎)の出身でした(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。韓安国は梁の人で、罪に坐していましたが、梁の内史に欠員ができたため、天子が使者を送って梁内史に任命し、囚人の中から二千石に抜擢しました。朱買臣は呉の人で、家が貧しくて薪を売って生活していましたが、後に計吏に従って長安に入り、会稽太守に任命されました)。どちらも才宜(才能が相応しいこと)によって、本邦に還って守ることになったのです。どうしてまた三互を顧みて遵守し、末制(重要ではない制度)に拘るようなことがあったでしょう(豈復顧循三互,繋以末制乎)。臣は陛下が上は先帝に則り、近禁(新しい禁制)を蠲除(廃除)して、諸州の刺史で能力があって換わることができる者は(刺史の職を任命できる者は。原文「其諸州刺史器用可換者」)日月や三互に拘らず、相応しい者を派遣すること(以差厥中)を願います。」
朝廷(皇帝)はこの意見に従いませんでした。
次回に続きます。