東漢時代283 霊帝(十八) 沖帝・質帝の母 175年(2)
河間王・劉建の孫・劉佗を任城王に封じました。
また、『後漢書・光武十王列伝(巻四十二)』は「霊帝がまた河閒(河間)貞王・劉建の子・新昌侯・劉佗を任城王に立てて孝王の後を奉じさせた」と書いており、中華書局『後漢書・孝霊帝紀』の校勘記が「劉佗は劉建の孫ではない」と解説していますが、ここは『孝霊帝紀』本文と『資治通鑑』のまま、「劉建の孫・劉佗」としました。
『光武十王列伝』によると、劉佗は王位に立って四十六年後に魏が漢の禅譲を受けたため、崇徳侯に落とされます。
夏四月、七つの郡国で大水(洪水)がありました。
延陵園で火災がありました。
延陵は成帝陵です。
朝廷が使者を派遣し、符節を持って延陵で告祠(祭祀)をさせました。
鮮卑が幽州を侵しました。
六月、弘農と三輔が螟(害虫)に襲われました。
朝廷が守宮令を鹽監に派遣して水渠を穿ち(水路を造り)、民のために利を興しました。
郡国で災害に遭った者に令を下し、田租の半分を減らしました。傷害(損害)が十分の四以上になる者は收責(取り立て)しないことにしました。
冬十月丁巳、天下の繋囚(囚人)で罪(刑)がまだ決していない者に命じ、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
『後漢書・皇后紀下』によると、小黄門・趙祐と議郎・卑整(卑が氏です)が「春秋の義においては、母は子によって貴くなるものです(母以子貴)。隆漢の盛典では、母氏を尊崇しており、外戚の立場にいる者も全て寵を加えられない者はいません(凡在外戚莫不加寵)。しかし今、沖帝の母・虞大家(大家は女子の尊称です)と質帝の母・陳夫人は、どちらも聖帝を生んだのに(誕生聖皇)、まだ称号がありません。臣子が賎しくても(賎しい臣子でも)、(功績があったら死後に)なお追贈の典(制度)があるものです。二母は健在なのでなおさらです。崇顕の次(等級)を蒙らなかったら、先世を遵守して後世に伝え示すことができません(無以述遵先世垂示後世也)」と上書したため、霊帝が二人の地位を正し、太常を送って憲陵(順帝陵)、懐陵(沖帝陵)、静陵(質帝陵)に報告しました。
平準(官名)を中準に改め、宦者を令にして内署(宮内の官署)に列しました。
この後、諸署が全て閹人(宦官)を丞・令にするようになりました。
『孝霊帝紀』の注によると、平準令は一人で、秩六百石です。
于窴王・安国が拘彌を攻めて大破し、その王を殺しました。
戊己校尉と西域長史がそれぞれ兵を発し、拘彌の侍子(人質として漢の朝廷に送られていた王子)・定興を輔佐して王に立てましたが、人衆は千口しかいませんでした。
次回に続きます。