東漢時代284 霊帝(十九) 曹鸞 176年

今回は東漢霊帝熹平五年です。
 
東漢霊帝熹平五年
丙辰 176
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月癸亥、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
益州郡の夷が反しましたが、太守李顒が討伐して平定しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
崇高山の名を嵩高山に戻しました。
『孝霊帝紀』の注によると、西漢武帝が中嶽(嵩山)を祀って「嵩高」を「崇高」に改めました。
本年、霊帝が中郎将堂谿典に雨請いをさせた時、堂谿典がこれを機に改名するように進言したため、嵩高山に戻しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
大雩(雨乞いの儀式)を行いました(旱害がありました)
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
朝廷が侍御史を派遣して詔獄、亭部を巡視させ、冤枉を理し(冤罪を正し)、軽繋(軽犯罪者)を赦し、囚徒を休めました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、太尉陳耽を罷免し、司空許訓を太尉にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
閏月(閏五月)、永昌太守曹鸞が上書しました「党人とは、あるいは老齢で徳が深く(耆年淵徳)、あるいは士大夫の中の英賢(衣冠英賢)で、皆、王室を輔佐して(陛下の)左右で大計を為すべき者です(宜股肱王室左右大猷者也)。しかし久しく禁錮を被り、困苦の中で辱めを受けています(辱在塗泥)。謀反大逆でも赦宥大赦を蒙っているのに、党人に何の罪があって、彼等にだけは寛恕が開かれないのでしょうか(獨不開恕乎)。災異がしばしば現れ、水害旱害が繰り返し至っているのは、全てこれが原因です。沛然(「沛然」は盛大な様子ですが、ここでは「寛大」を意味すると思われます)を加えて天心に副うべきです(宜加沛然以副天心)。」
上書を読んだ霊帝は激怒してすぐに司隸益州に詔を発しました。檻車で曹鸞を逮捕させて槐里獄に送り、拷問して殺してしまいます(掠殺之)
資治通鑑』胡三省注によると、永昌郡は益州に属し、扶風槐里県は司隸に属すので、益州に命じて曹鸞を逮捕させ、司隸に命じて槐里獄に送らせました。
また、『後漢書霊帝紀』は「閏月、永昌太守曹鸞が党人の訟(冤罪の訴え)に坐して弃市に処された」と書いていますが、注が「その言が切直だったため、帝が怒り、檻車で槐里獄に送ってこれを掠殺(拷問で殺すこと)した」と解説しています。
 
霊帝は更に州郡に詔を発しました。改めて党人の門生、故吏、父子、兄弟で官位にいる者を調査させ、全て免官して禁錮に処し、これが五属(五服内の親族。五服は自分を一代として父、祖父、曾祖父、高祖父に至る五代の親族です)に及びます。
『孝霊帝紀』は「詔によって党人の門生、故吏、父兄、子弟で位にいる者を皆、免官禁錮した」と書いています。『資治通鑑』の「五属に及んだ」というのは『後漢書党錮列伝(巻六十七)』の記述が元になっています。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月壬戌(初三日)、太常南陽の人劉逸を司空にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、劉逸の字は大過といい、安衆の人です。『後漢書郡国志四』によると、安衆は南陽に属す侯国です。
 
秋七月、太尉許訓を罷免し、光禄勳劉寛を太尉にしました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
冬十月壬午、御殿後の槐樹が自ら抜けて逆さに立ちました(自抜倒豎)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒袁隗を罷免しました。
十一月丙戌(中華書局『白話資治通鑑』は「丙戌」を恐らく誤りとしています)、光禄大夫楊賜を司徒にしました。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』からです。
十二月、甘陵王劉定が死にました。
 
劉定の諡号は貞王で、父は威王「劉理」、または「劉恢」です霊帝熹平元年172年)
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉定の死後、子の献王劉忠が継ぎました。
劉忠は後に黄巾賊が挙兵した時、国人に捕えられましたが、暫くして釈放されました。在位十三年で死にます霊帝中平六年189年)
嗣子(後嗣)が黄巾に害されていたため、献帝建安十一年206年)になって後嗣がいないという理由で正式に国を廃されました。
 
[十二] 『後漢書霊帝紀』からです。
太学生で年が六十歳以上の者百余人を試験し、郎中、太子舍人および王家郎(諸王国の郎)、郡国の文学吏に任命しました。
『孝霊帝紀』の注によると、太子舍人と王家の郎中(朗)は秩二百石で、定員はいません。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
この年、鮮卑が幽州を侵しました。
 
[十四] 『後漢書霊帝紀』からです。
沛国が「黄龍が譙に現れた」と報告しました。
 
 
 
次回に続きます。