東漢時代285 霊帝(二十) 陽球 177年(1)

今回は東漢霊帝熹平六年です。二回に分けます。
 
東漢霊帝熹平六年
177年 丁巳
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月辛丑(十五日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
二月、南宮平城門と武庫の東垣屋(武庫外の東側の壁。「屋」は家屋、または屋根です)が自然に壊れました。
 
『孝霊帝紀』の注によると、平城門は洛陽城(雒陽城)の正陽の門(南側中央の門)です。宮殿に連なっており、郊祀の際は法駕(天子の車)がこの門から出たので、諸門の中でも最も尊い門とされていました。
武庫は禁兵(宮中の武器)を保管する倉庫です。
「小人が位にいたらその妖によって城門が自ら壊れる(小人在位厥妖城門自壊)」といわれていました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、大旱に襲われ、七州で蝗害がありました。
 
霊帝が三公に命じて長吏で苛酷貪汚な者を條奏(箇条書きにして上奏すること)させ、罷免しました。
 
平原相漁陽の人陽球(『資治通鑑』胡三省注によると、斉人が陽国に入り、その子孫が国名を氏にしました。または周景王が少子を陽樊に封じたため、邑名が氏になりました)が厳酷の罪に坐し、朝廷に召されて廷尉に送られました。
しかし陽球は以前、九江太守として賊を討伐して功績があったため、霊帝は特別に赦して議郎に任命しました。
 
後漢書酷吏列伝(巻七十七)』によると、陽球は字を方正といい、漁陽泉州の人です。家は代々大族の官吏でした(家世大姓冠蓋)
陽球は剣撃ができて弓馬を習いました。性格が厳厲(厳格、厳粛)で、申韓の学(法家の学問)を好みました。
陽球の母を辱めた郡吏がいたため、陽球は少年(若者)数十人と結んで官吏を殺し、その家を滅ぼしました。これがきっかけで名が知られるようになります。
初めは孝廉に挙げられて尚書侍郎の官に就きました。故事に習熟しており、章奏(上奏文)や討議の処理においてしばしば台閣尚書台)の崇信(尊重と信任)を受けます。
後に朝廷を出て高唐令になりましたが、厳苛な様子が道理を越えていたため、郡守が逮捕検挙しました。

しかし、ちょうど大赦があったため赦されます。
その後、司徒劉寵の府に招かれて高第(成績が優秀な者)として推挙されました。

九江の山賊が蜂起して月を経ても解決できなかったため、三府が陽球には姦賊に対処する能力があると上書しました。陽球は九江太守に任命されます。
九江に到着した陽球は方略を設けて凶賊を殄破(撃破殲滅)し、郡中の姦吏を逮捕して全て殺しました。
その後、平原相に遷されましたが、天下に大旱があり、司空張顥が苛酷貪汚な長吏を訴えたため、陽球も厳苦の罪に坐して廷尉に送られ、官を免じられました。
霊帝は九江の功績によって陽球を議郎に任命し、やがて将作大匠に遷しました。
 
このように、『後漢書酷吏列伝』では「司空張顥」が條奏によって苛酷貪汚な長吏を訴えていますが、『後漢書霊帝紀』によると張顥は光和元年178年。翌年)に太常から太尉になっており、司空は経験していません。
陽球は翌年に蔡邕を陥れますが、その時既に将作大匠になっています。
張顥の上奏によって陽球が平原相を免じられたのがいつの事かははっきりしませんが、熹平五年と六年(前年と本年)に旱害があったため、『資治通鑑』はここに書いています(胡三省注参照)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が三辺を侵しました。
資治通鑑』胡三省注は「鮮卑が強盛になったため、東西北の三辺が全て侵されるようになった」と解説しています。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
数十人の市賈小民(「商人や庶民」または「市井の民」。『資治通鑑』では「市賈小民」。『孝霊帝紀』では「市賈民」です)が集まって「宣陵孝子」と称しました。宣陵は桓帝陵です。
後漢書蔡邕列伝(巻六十下)』に「(彼等は)山陵に集まって孝子の名をかたった(群聚山陵假名称孝)」とあるので、宣陵に集まったようです。
 
霊帝は詔を発して全て太子舍人に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、太子舍人は秩二百石で、交替で太子宮の宿衛をしました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、司空劉逸を罷免し、衛尉陳球を司空にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて霊帝は文学を好み、自ら『皇羲篇』五十章を作りました。
この頃、霊帝が諸生で文賦を為せる者を招き、鴻都門下に集めて待制(待機すること。皇帝の命令を待つこと)させ、後には尺牘(公文書)および鳥篆(篆書の一種)を書ける者(諸為尺牘及工書鳥篆者)も全て召しました。合計数十人が集まります。
侍中祭酒(『資治通鑑』胡三省注によると、侍中には僕射が一人おり、東漢中興後に祭酒に変わりました)楽松や賈護は無行趣勢の徒(善行がなく権勢におもねる者)を多数招いてその中に置きました。
彼等は好んで閭里(街巷)の小事を霊帝に語り、それを甚だ悦んだ霊帝は秩序を越えた破格の官位を与えて厚遇しました(待以不次之位)
また、霊帝は久しく自ら郊廟の礼を行わなくなりました。
 
ちょうど霊帝が群臣に詔を発して政要(政治の要点)について述べさせたため、蔡邕が封事(密封した上書)を提出しました。封事の内容は別の場所で紹介します。

東漢時代 蔡邕の上書 


上書が提出されると、霊帝は自ら北郊で気を迎え、辟雍の礼(養老の儀式)を行いました。
また、詔を発して宣陵孝子で舍人になった者を全て県の丞尉に改めました。
 
 
 
次回に続きます。