東漢時代 蔡邕の上書

東漢霊帝熹平六年177年)、蔡邕が上書して霊帝を諫めました。

東漢時代285 霊帝(二十) 陽球 177年(1)

 
以下、『資治通鑑』から上書の内容を紹介します。
 

蔡邕が言いました「五郊で気を迎え(明帝永平二年59年参照)、清廟で祭祀を行い、辟雍で養老するのは(迎気五郊、清廟祭祀、養老辟雍)、皆、帝者(帝王)の大業であり、祖宗(先代)が祗奉(敬奉。恭しく実行すること)してきたことです。ところが有司(官員)がしばしば蕃国(藩国)の疏喪(疎遠な親族の葬事)、宮内の産生(出産)および吏卒の小汙(病や死亡)を理由にして、これらを廃して行わず(廃闕不行)、礼敬の大を忘れ、禁忌の書に任せ(禁忌の書を信用し)、小故(小事。または取るに足らない前例)を過度に信じて(拘信小故)、大典を損なっています。今からは齋制(祭祀の前に行う斎戒の制度)を故典のようにするべきです。そうすれば、風霆(大風や雷)、災妖の異に答えられるでしょう(自今齋制宜如故典,庶答風霆災妖之異)

また、古では士を取るために必ず諸侯に歳貢させていましたが(『資治通鑑』胡三省注は「三歳一貢士」と書いています。古の諸侯は天子に対して三年ごとに士を推挙していました)、孝武(西漢武帝)の世になって、郡が孝廉を挙げるようになり、また、賢良文学の選ができ、そこから名臣が輩出し、文武が並んで興隆しました。漢が人を得るのは、この数路(孝廉賢良文学等の推挙)だけです。書画辞賦というのは才の小さなものであり、国を正して政事を治めることにおいて、その能力がありません(匡国治政未有其能)。陛下が即位したばかりの時は、まず経術に触れて(先渉経術)、聴政の余日に篇章(文章)を観省しましたが(政治の合間に文学作品を読みましたが)、それはとりあえずの遊びとして博奕(棋上の遊戯)の代わりにしただけで(聊以游意当代博奕)、教化や取士(人材を選ぶこと)の本(基準)にはしませんでした。しかし(今は)諸生が利を競い、作者が鼎沸(喧噪)としており、高者(高明な者)は頗る経訓風喩の言を引用していますが、下(低俗な者)は偶俗の語(世俗に迎合する言葉。または「偶」は「俚」の誤りで「俚語と俗語」。「俚語」は民間の粗俗な口語です)を連ね、俳優(芸人訳者)の類もおり、ある者は成文を盗んで他人の氏名を語っています(或竊成文虚冒名氏)。臣が盛化門で詔を受けるたびに、(彼等が)序列をよって順に採用されており(差次録第)(能力が)及ばない者でも、衆人に従って全て拝擢(抜擢任用)されています(其未及者亦復隨輩皆見拝擢)。既に恩を加えた者を改めて收改(撤回、変更)するのは困難ですが、奉禄を守らせるだけで、義においては既に寛大になっています(彼等に俸禄を与えるだけで既に充分です。原文「於義已弘」)。民を治めさせたり、州郡に居させてはなりません(不可復使治民及在州郡)。昔、孝宣西漢宣帝)は石渠で諸儒と会し、章帝は白虎に学士を集め、経典を解釈してその義を明らかにしました(通経釈義)。この事は優大であり、文武の道西周文王と武王の治国の道)とは従うべきものです。もし小能小善(小さな能力や長所)に見るべきところがあったとしても(雖有可観)孔子は遠くに至るには障害になると考えました(小人に小才があったとしても、大事を為すには妨げになります。原文「孔子以為致遠則泥」。「泥」は停滞して通らなくなることです)。だから君子は大事を志すべきなのです(小能小善を求める必要はありません。原文「君子固当志其大者」)

また、以前、一切を宣陵孝子として太子舍人にしましたが(宣陵孝子を全て太子舍人にしましたが)、臣が聞くに、孝文皇帝は喪に服すのを三十六日と制定し西漢文帝後七年157年参照)、たとえ継体の君(帝位を継承した新君)、最も親しい関係にある父子(父子至親)、重恩を受けた公卿列臣(公卿列臣受恩之重)でも、皆、情を屈して制に従い、敢えて(その期間を)越えようとしませんでした(不敢踰越)。今、虚偽の小人(宣陵孝子)は元々骨肉(家族)ではなく、幸私(寵愛)の恩もないうえに禄仕(仕官して俸禄を得ること)の実もないので、惻隠の心(同情の心。桓帝の死を悲しむ心)は義(道理)において根拠がなく、姦軌(姦悪)の人を許容してその中に入れることになっています(至有姦軌之人通容其中)。桓思皇后の祖載の時(棺を車に載せて祀った時)、東郡で人の妻を盗んだ者がおり、孝中(葬列の中)に逃亡しましたが、本県(本籍の県)が追捕してやっとその辜(罪)に伏しました。(このような)虚偽雑穢(虚偽の者や雑乱、不純な者)は言い尽くすのが困難です(難得勝言)。太子の官属は令徳(美徳)を捜して選ぶべきです。どうして丘墓の凶醜な人(宣陵孝子。宣陵に集まって孝子を名乗りました)だけを取ることができるでしょう(豈有但取丘墓凶醜之人)。不祥を為すのにこれより大きいものはありません(これよりも不祥不吉なことはありません。原文「其為不祥莫與大焉」)。田里に送り帰して詐偽(詐術虚偽)を明らかにするべきです。」

 
上書が提出されると、霊帝は自ら北郊で気を迎え、辟雍の礼(養老の儀式)を行いました。

また、詔を発して宣陵孝子で舍人になった者を全て県の丞尉に改めました。