東漢時代286 霊帝(二十一) 鮮卑討伐 177年(2)

今回は東漢霊帝熹平六年の続きです。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
烏桓校尉夏育が上書しました「鮮卑が辺境を侵しており(寇辺)、春以来三十余発(回)になります。幽州諸郡の兵を徴発し、塞を出てこれを撃つことを請います。一冬二春で必ず禽滅(捕縛消滅)することができます。」
 
以前、護羌校尉田晏が事件を起こして刑を受けることになりましたが、赦免されました(坐事論刑被原)
田晏は功績を立てて報いようと欲し、自分が将に立てられるように働きかけるよう、中常侍王甫に請いました。
そこで王甫は、兵を派遣することと、田晏に夏育と協力して賊を討たせることを議論に上げます。
その結果、霊帝は田晏を破鮮卑中郎将に任命しました。
しかし、大臣の多くが出征に賛同しなかったため、霊帝は百官を招いて朝堂で議論させました。
 
蔡邕が意見を述べました「殊類(異民族)の征討は由来を久しくしますが(征討殊類所由尚矣)、時には同異があり、勢にも可否があるので(時機には同じことも異なることもあり、形勢にも征討できる時とできない時があるので)、謀には得失があり、事には成敗があり、同一視ができないのです(時有同異勢有可否,故謀有得失,事有成敗,不可斉也)西漢でも)世宗武帝の神武と将帥の良猛、財賦の充実をもって広遠な地を包括しましたが(所括広遠)、数十年の間に官民が共に窮乏し(官民俱匱)、やはり後悔を抱きました(原文「猶有悔焉」。『輪台の詔』を指します。西漢武帝征和四年89年参照)。今は人も財も共に欠乏しているので、事は昔時(往時)より更に劣っています。
匈奴が遁逃してからは鮮卑が強盛になり、その故地を占拠して兵十万を称し、才力が勁健(強健)で意智(計謀)がますます生まれています(原文「才力勁健意智益生」。恐らく将兵が強健で知謀も尽きないという意味です)。加えて関塞が厳しくなく、禁網(禁令)に多くの漏れがあるため、精金良鉄は全て賊に所有されており、漢人が逋逃(逃亡)して彼等の謀主になっています。鮮卑の)兵利馬疾(武器が鋭利で馬が速い様子)匈奴を越えています。
昔、段熲は良将で、兵(戦。または兵法)に習熟して戦を善くしましたが(習兵善戦)、西羌に兵を用いてなお十余年も要しました(原文「有事西羌猶十余年」。『資治通鑑』胡三省注によると、段熲は桓帝延熹二年159年)に西羌を撃って霊帝建寧二年169年)に功を成したので、合計十一年(足掛け)になります)。今、夏育と田晏の才策(才能謀略)は段熲を越えているとは限らず、鮮卑種衆(族衆)は往事より弱くありません。それなのにいたずらに計って二年とし(虚計二載)、自分では成功すると思っていますが(自許有成)、もしも戦禍が続いて兵を連ねることになったら、どうして途中で止められるでしょう(禍結兵連豈得中休)。再び衆人を徴集して、転運(物資の輸送)が止まなくなるに違いありません。これは諸夏(中華)を耗竭(消耗)させて蛮夷のために尽力することです(是為耗竭諸夏并力蛮夷)。辺垂の患とは手足の疥搔(皮膚病)であり、中国の困(困窮)は胸背の瘭疽(可膿性の炎症。または悪性の腫瘍)です。今は郡県の盗賊もまだ禁じることができないのに、どうしてこの醜虜を伏すことができるのでしょうか。
昔、高祖は平城の恥を忍び、呂后は慢書の詬(恥)を棄てました。今においたらどちらが重大でしょうか(方之於今何者為盛)。天は山河を設け、秦は長城を築き、漢は塞垣(営塞障壁)を起こしました。これは内外を別けて殊俗(違う風俗)を異ならせるためであり、とりあえず国内侮の患(国が逼迫されて内地が侵される憂患)がなければそれでいいのです。どうして蟲螘(虫蟻)の虜と往来の数を較べるのでしょうか(なぜ蟲螘のような虜の往来の数を気にするのでしょうか。原文「校往来之数哉」)。あるいはこれを破ったとしても、どうして殄尽(殲滅)できるでしょう。そもそも、(今は鮮卑が)本朝をこのために旰食(遅い食事)にさせているのでしょうか鮮卑がいるために陛下は多忙で食事の時間も遅くなっているのでしょうか。原文「而方令本朝為之旰食乎」)
昔、淮南王劉安が越討伐を諫めてこう言いました『もしも(遠征したために)越人に死を冒して執事(漢将)に逆らわせることになり、廝輿(労役)の卒が一人でも不備によって帰らなかったら、たとえ越王の首を得たとしても、やはり大漢はこれを羞とします(大漢の恥になります)。』斉民(平民)によって醜虜に換えようと欲し(原文「欲以斉民易醜虜」。中原の民を犠牲にして鮮卑の虜囚を獲ようとする、という意味だと思います)、皇威が外夷によって辱められるのは(皇威辱外夷)、その言の通りであったとしても(夏育等の進言の通りであったとしても。たとえ勝ったとしても)なお危険な事です(就如其言猶已危矣)。得失を量ることができないのならなおさらです(況乎得失不可量邪)。」
霊帝はこの意見に従いませんでした。
 
八月、朝廷が護烏桓校尉夏育を高柳から出撃させ、破鮮卑中郎将田晏を雲中から出撃させました。匈奴中郎将(使匈奴中郎将)臧旻も南単于を率いて雁門を出ます。それぞれ一万騎を指揮して三道から塞をて、二千余里を進みました。
 
檀石槐は三部大人に命じ(檀石槐は国を三部に分けていました。桓帝延熹九年166年参照)、各自の衆を率いて迎撃させました。
夏育等は大敗して節伝(符節)や輜重を失い、それぞれ数十騎を率いて逃げ帰ります。死者は十分の七八に及びました。
三将は檻車で朝廷に召されて獄に下されましたが、(金銭で)贖罪して庶人になりました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月癸丑朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉劉寬を罷免しました。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』からです。
霊帝が辟雍に臨みました。
 
[十二] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛丑(中華書局『白話資治通鑑』は「辛丑」を恐らく誤りとしています)、京師で地震がありました。
 
[十三] 『後漢書霊帝紀』からです。
辛亥、天下の繋囚(囚人)で罪()がまだ決していない者に、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
 
[十四] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、司空陳球を罷免しました。
十二月甲寅(初三日)、太常河南の人𢒰を太尉にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、孟𢒰の字は叔達といいます。
 
庚辰(二十九日)、司徒楊賜を罷免しました。
太常陳耽を司空にしました。
 
[十五] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
遼西太守甘陵の人趙苞は着任してから使者を送って母と妻子を迎え入れようとしました。
母と妻子は遼西郡の近くまで来て柳城を通りました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の遼西郡故城は盧龍城東にありました。柳城県は遼西郡に属します。
 
ちょうどこの時、鮮卑の一万余人が塞に入って寇鈔(侵略略奪)しました。趙苞の母と妻子は鮮卑に捕えられて人質になります。
鮮卑は趙苞の母と妻子を車に載せて遼西郡を攻めました。
 
趙苞は騎二万を率いて陣を構え、賊と対峙しました。
賊が母を連れ出して趙苞に見せると、趙苞は悲痛号泣して母にこう言いました「息子として罪深いことです(為子無状)。微禄(少ない俸禄)によって朝夕に奉養しようと欲したのに(母を扶養しようと欲したのに)、図らずも母に禍を作ってしまいました。(私は)昔は母の子でしたが、今は王臣になりました。義によって私恩を顧みるわけにはいきません。忠節を損なったら万死に当たるだけであり、罪を塞ぐことができません(毀忠節,唯当万死,無以塞罪)。」
母が遠くから言いました「威豪(趙苞の字です)よ、人にはそれぞれ命(天命)があります。どうして(私を)顧みて忠義を損なうことができるでしょう(何得相顧以虧忠義)。汝はこれに勉めなさい(爾其勉之)。」
趙苞は即時進軍して賊をことごとく撃破しました。しかし母と妻も殺害されました。
 
趙苞は自ら朝廷に上書し、故郷に帰って埋葬することを請いました。
霊帝は使者を送って弔慰(弔問慰労)し、侯に封じます。
しかし趙苞は埋葬が終わると郷人に「禄を食しながら難を避けるのは忠ではない。母を殺して義を全うするのは孝ではない。このようであるのに(趙苞は不忠ではありませんが、不孝を選びました)、何の面目があって天下に立てるか(如是有何面目立於天下)」と言い、血を吐いて死んでしまいました。
 
[十六] 『後漢書霊帝紀』からです。
永安太僕(『孝霊帝紀』の注によると、永安宮の太僕です)王旻が獄に下されて死にました。
 
 
 
次回に続きます。