東漢時代287 霊帝(二十二) 楊賜の諫言 178年(1)
戊午 178年
三月に改元します。
春正月、合浦、交趾の烏滸蛮が叛し、九真、日南の民を招き入れて郡県を攻略しました。
太尉・孟𢒰を罷免しました。
二月辛亥朔、日食がありました。
癸丑(初三日)、光禄勳・陳国の人・袁滂を司徒にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、袁滂の字は公喜といいます。
始めて鴻都門学(学校)を設立しました。
『孝霊帝紀』の注によると、鴻都は門の名で、門内に学(学校。学所)が置かれました。州・郡や三公に命じて尺牘(公文書)・辞賦の能力がある者や鳥篆(篆字の一種)を書ける者を推挙させ、それぞれ課試(試験)しました。学生の数が千人に上ります。
以下、『資治通鑑』からです。
諸生は全て州郡や三公に命じて挙用・辟召(登用・招聘)させました。ある者は外に出て刺史や太守になり、ある者は朝廷に入って尚書や侍中になり、封侯・賜爵された者もいます(『資治通鑑』胡三省注によると、関内侯以下の爵位を与えることを「賜爵」といいます)。
しかし士君子(読書人。高尚な士人)は皆、彼等と同列になることを恥としました。
太常・常山の人・張顥を太尉にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、張顥の字は智明といいます。
張顥がかつて梁相を勤めていた頃、雨が上がったばかりの時に鵲が近くに飛んで来ました。張顥が人に命じて探させると(令人擿之)、鵲は地に落ちて円石になります。張顥は石を打ち砕かせて金印を得ました。そこには「忠孝侯印」と刻まれていました。
侍中寺(侍中の官署)で雌雞が雄になりました。
司空・陳耽を罷免し、太常・来豔を司空にしました。
五月壬午、白衣の人が徳陽殿門に入りましたが、逃げ去ったため捕えられませんでした。
得体のしれない白衣の者が徳陽門に入ろうとして「私は梁伯夏だ。私を上殿させて天子にしろ(我梁伯夏,教我上殿為天子)」と言いました。
中黄門・桓賢等が門吏僕射を呼んでこの者を捕えようとしましたが、官吏が到着する前に白衣の者は突然走って引き返しました(須臾還走)。(桓賢等は白衣の者を)探しても見つからず、姓名も分かりませんでした。
秋七月壬子(中華書局『白話資治通鑑』は「壬子」を恐らく誤りとしています)、玉堂後殿(『孝霊帝紀』は「御坐玉堂後殿」と書いています。「玉堂後殿」に御座(玉座)があったようです)の庭の中に青虹が現れました。
『楊震列伝』の注によると、「虹」でも色が鮮やかで盛んなものは雄で「虹」といい、暗いものは雌で「蜺」といいました。
楊賜が答えて言いました「『春秋讖』はこう言っています『天が蜺を投じたら、天下が怨んで海内が乱れる(天投蜺,天下怨,海内乱)。』加えて四百の期にももうすぐ及びます(『資治通鑑』胡三省注が『春秋演孔図』の予言を紹介しています。下述します)。今は妾媵・閹尹(妃嬪や宦官)の徒が共に国朝を専らにしており、日月(天子。または天下)を欺罔(欺瞞)しています。また、鴻都門下に群小を招会(召集)してから、(彼等は)賦説(賦辞)を作って時の寵を受け(造作賦説見寵於時)、互いに推薦し合い(更相薦説)、旬月(十日から一月)の間にそれぞれ並んで抜擢されています。楽松が常伯(侍中)に位置し、任芝が納言(尚書)に居り、郤倹(『資治通鑑』胡三省注によると、郤氏は晋の卿・郤氏の後代です)、梁鵠がそれぞれ豊爵(高爵)と不次の寵(破格の寵愛)を受けているのに、搢紳の徒(紳士、士人)を畎畮(田野)に委伏(埋没)させており、(彼等は)口で堯・舜の言をそらんじ、身は絶俗の行を踏んでいるのに(世俗を超越した行いを実践しているのに)、溝壑(山谷)に棄てられて(恩寵や任用が)及んでいません(棄捐溝壑不見逮及)。このように冠と履物を逆転して使い、山と谷を入れ換えている状態ですが、幸いにも皇天が天象を垂らして譴告しました(冠履倒易,陵谷代処,幸賴皇天垂象譴告)。『周書(逸周書)』はこう言っています『天子が怪を見たら徳を修め、諸侯が怪を見たら政を修め、卿大夫が怪を見たら職を修め、士庶民が怪を見たら身を修める(天子見怪則修徳,諸侯見怪則修政,卿大夫見怪則修職,士庶人見怪則修身)。』陛下が佞巧の臣を斥遠(排斥して遠ざけること)し、速く鶴鳴の士(隠居している賢者)を徴し、尺一(一尺一寸。詔書)を断絶して槃游(遊楽)を抑止することを願います。こうすれば上天が威を還す望みがあり、衆変(各種の変異)を止めることができます(冀上天還威,衆変可弭)。」
漢の寿命について『春秋演孔図』にこう書かれていました「劉四百歳之際,褒漢王輔,皇王以期,有名不就」。
理解が困難ですが、「劉氏の漢が四百年を経た時、漢王の輔佐を称賛・奨励したとしても、皇王に期限があるため(漢帝の寿命は四百年と決まっているため)、名があっても就かない(名声がある者も漢王を輔佐しない)」という意味だと思います。
次回に続きます。