東漢時代289 霊帝(二十四) 西邸の売官 178年(3)

今回で東漢霊帝光和元年が終わります。
 
[十九] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十月丙子晦、日食がありました。
 
尚書盧植が上書しました「凡そ諸党錮においては、多くにその罪がないので、赦恕(赦免寛恕)を加えて申宥回枉(寛恕を施して冤罪を解くこと)するべきです。また、宋后の家属は全て無辜(無罪)なのに、遺骸を棄てられて死体を横たえており(委骸横尸)、斂葬(死体を回収して埋葬すること)できずにいます。收拾(回収)を敕して(命じて)遊魂を安んじるべきです。また、郡守や刺史が一月にしばしば遷っています。昇降の制度に則って能否を明らかにし、九年が無理でも三年は満たすようにするべきです(原文「宜依黜陟以章能否,縦不九載可満三歳」。古代は「三考(三回の試験)」の制度がありました。『資治通鑑』胡三省注によると唐堯の法で、三年に一回試験を行い、三考によって能力を明らかにしました。三考は九年を要します)。また、請謁希求(請託要望)は一切禁じてその道を塞ぐべきです(一宜禁塞)。選挙の事は主管する者に責任を全うさせます(責成主者)。また、天子の礼は、理において私積(個人の蓄え)がないものなので、大務(重大な政務)を弘揚して(重視して)、細微(些細なこと。金儲け等の賎しいこと)は廃除するべきです(宜弘大務,蠲略細微)。」
霊帝はこの意見に取りあいませんでした。
 
[二十] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、太尉陳球を罷免しました。
十二月丁巳(十二日)、光禄大夫橋玄を太尉にしました。
 
[二十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が酒泉を侵しました。
種衆(族衆。鮮卑の兵数)が日に日に多くなり、縁辺で毒(害)を被らない場所はありませんでした。
 
[二十二] 『後漢書霊帝紀』からです。
京師で馬が人を生みました。
『孝霊帝紀』の注によると、「諸侯が交伐するとその妖によって馬が人を生む(諸侯相伐厥妖馬生人)」といわれていました。
 
[二十三] 『資治通鑑』からです。
霊帝が中尚方(『資治通鑑』胡三省注によると、尚方を指します。少府に属します)に詔を発し、鴻都文学楽松、江覧等三十二人のために図象を描いて賛辞を配させました。学者を励ますためです(以勧学者)
 
尚書陽球が諫めて言いました「臣が考えるに(臣案)、楽松、江覧等は皆、微蔑の出身で、斗筲の小人(斗も筲も小さい容器です。「斗筲の小人」は度量が狭く能力がない小人という意味です)なのに、世戚(代々の親戚。皇族)に頼り、権豪に附いて請託し(依憑世戚附託権豪)、俛眉承睫(眉を伏せて睫毛を承る。顔色を見て阿諛、迎合するという意味です)したおかげで、幸いにも本朝に進むことができました(原文「徼進明時」。「明時」は「清明な政治が行われている時」という意味で、「本朝」を指します)。しかしある者は一篇の賦を献じ、ある者は鳥篆(篆書の一種)で簡(木簡、竹簡)を満たしただけで、位が郎中に昇り、肖像を描かれることになりました(原文「形図丹青」。「丹青」は本来、顔料の意味ですが、絵画や絵そのものを指すようになりました)。また、ある者は筆が牘(文を書く木片)を点じず(文字を書けず)、辞が心を辨(辯)じず(言葉で考えを表すことができず)、手を借りて字を請い(他の者に文章を書いてもらい。原文「假手請字」)、妖偽が百品となっています(荒唐無稽な事が続出しています)。しかし殊恩(特別な恩寵)を蒙らない者はなく、蝉が泥から這い出て殻を脱ぐように賎しい者が這い上がっています(原文「蟬蛻滓濁」。意訳しました)。そのため、有識の者が掩口し(口をかくして笑い)、天下が嗟嘆(嘆息)しています。臣が聞くに、図象を設けるのは、勧戒(奨励すべきことと戒めるべきこと)を明らかにして、人君の行動において得失を鑑みさせようと欲するからです(先人の前例を教訓にさせるためです。原文「欲令人君動鑒得失」)。豎子小人が偽って文頌(功徳を称賛する文章)を作ったことで、妄りに天官(朝廷の官位)を窺えるようになり、素(白い絹)に肖像を描き留めた(垂象図素)とは聞いたことがありません。今は太学、東観(『資治通鑑』胡三省注によると、東観は南宮にあります)によって聖化を宣明するに足りています。鴻都の選を廃止し、そうすることで天下の謗を除くように願います。」
上書が提出されましたが、霊帝は省みませんでした。
 
[二十四] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、初めて西邸を開いて官位を売りました(売官)
資治通鑑』胡三省注によると、西園に邸舍(店や倉庫)を開いたため西邸といいました。
 
官位の金額にはそれぞれ差があり、二千石は銭二千万、四百石は銭四百万とされました。但し徳次(徳行の序列)によって選ばれるべき者は半額、あるいは三分の一にしました(『孝霊帝紀』は「関内侯、虎賁、羽林の納める銭(金額)はそれぞれ差があった」と書いていますが、「関内侯、虎賁、羽林」以外の官爵も売られたはずです。『資治通鑑』はこの一文を採用していません)
金銭を蓄えるために西園に倉庫が建てられました。
 
ある者が宮闕を訪ねて上書し、県の令長の職を求めたため、その県の好醜(美醜、優劣)、豊約(「豊」は富裕、「約」は貧困です)によって金額を決めました。
原文は「或詣闕上書占令長,隨県好醜,豊約有賈」です。「占」は「地位や場所を占めること」です。ここでは「県令県長の地位を得るために名乗り出た」という意味だと思います。
 
富者は先に金銭を納め、貧者は官に就いてから倍の額を払いました(倍輸)
また、霊帝は個人的に左右の者に命じて公卿(三公九卿)の地位も売らせました。公は千万、卿は五百万です。
霊帝は諸侯だった頃、常に貧困に苦しんでおり、即位してからも、桓帝が家居(家の蓄積)を作れず、私銭がなかったことをいつも嘆いていました。そこで売官によって金銭を集めて私藏(個人の貯蓄)にしました。
 
霊帝が侍中楊奇に「朕と桓帝を比べたらどうだ(朕何如桓帝?」と聞いたことがありました。
楊奇はこう言いました「陛下と桓帝の関係は、虞舜と唐堯の徳を比べるようなものです(陛下之於桓帝亦猶虞舜比徳唐堯)。」
霊帝桓帝よりも自分が優れていると思っていたため、桓帝と同じだと言われて不快になりました。楊奇が敢えて聖人堯舜を引用したことにも皮肉が込められています。
霊帝が言いました「卿は強項である(「強項」は首が強いことで、強者に屈しないことを表します)。真に楊震の子孫だ。死後、必ずまた大鳥を招くだろう。」
楊奇は楊震の曾孫です。
楊震は冤罪のために自殺しましたが、後に大鳥が現れたので、順帝によって冤罪が晴らされました(安帝延光三年124年および延光四年125年参照)
後漢書楊震列伝(巻五十四)』本文と注によると、楊震には五子がおり、長子楊牧が富波相になりました。富波は汝南郡に属します。楊奇は楊牧の孫に当たります。
 
[二十五] 『資治通鑑』からです。
南匈奴の屠特若尸逐就単于が死に、子の呼徵単于が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。