東漢時代290 霊帝(二十五) 王甫誅殺 179年(1)
己未 179年
春、大疫に襲われました。
朝廷が常侍や中謁者を派遣して巡行させ、医薬を届けました。
三月、司徒・袁滂を罷免し、大鴻臚・劉郃を司徒に任命しました。
『孝霊帝紀』の注によると、劉郃の字は季承といいます。
『欽定四庫全書・後漢記(袁宏)』は「二月丁巳、災異を理由に司徒・袁滂を罷免した」「大鴻臚・劉邵を司徒にした」と書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書・孝霊帝紀』に従って「二月丁巳」を「三月」に、「劉邵」を「劉郃」にしています(胡三省注参照)。
橋玄の幼子が門前で遊んでいた時、ある者にさらわれてしまいました。幼子をさらった者は楼に登って財貨を要求します。
しかし橋玄は要求を拒否しました。
この後、劫質が後を絶ちました。
京兆で地震がありました。
司空・袁逢を罷免し、太常・張済を司空にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、張済の字は元江で、細陽の人です。
夏四月甲戌朔、日食がありました。
太尉・段熲が彼等に阿附しています。
王甫の養子・王吉は沛相になり、特に残酷でした。人を殺す時は全て車の上で死体を切り刻み(磔尸車上)、罪目(罪名)と一緒に属県に宣示します。夏月(夏)になって死体が腐爛すると、縄でその骨を繋ぎ、一郡を完全に回り終えてからやっと停止しました(周徧一郡乃止)。見た者は驚き恐れます。
王吉は五年間政治を行い、殺した者は一万余人に上りました。
暫くして陽球は実際に司隸校尉になりました。
王甫が門生を使って京兆界内で官の財物七千余万を辜榷しました。「辜榷」は不当に集めること、または他者の売買を妨害して利益を独占することです。
この時、王甫は休暇中で自宅に居り(原文「休沐里舍」。「里舎」は私人の住宅です)、段熲も日食の責任を負って自分を弾劾していました。
陽球が自ら王甫等の審問に臨み、五毒を全て備えて使い尽くしました。「五毒」は鞭、捶(棒打ち)、灼(焼く)、徽、纆(徽と纆は縄で縛ることです。縛り方が異なるようです)という拷問の種類です。
王萌はかつて司隸校尉を勤めていたため、陽球にこう言いました「(我々)父子(王甫と王萌)は誅に伏して当然だが、先後の義(司隸校尉の先輩、後輩の情義)をもって、楚毒(酷刑)を少なくすることで老父(王甫)に対して寛大にしてほしい(少以楚毒假借老父)。」
しかし陽球はこう言いました「汝等の罪悪無状(「無状」は善行がないことです)は死んでも譴責を無くせない(死不滅責)。まだ先後(前後)を論じて假借(寛恕)を欲するのか!」
王萌が罵って言いました「汝は以前、我が父子に奉事して奴(奴僕)のようだったのに、奴が敢えて汝の主に反すのか(陽球が王甫父子に仕えていたのがいつの事かはわかりません。陽球の小妻(妾)は中常侍・程璜の娘なので、王甫とも関係があったと思われます)!今日、(我々の)困窮に臨んで迫害しているが、その行いは自分に及ぶであろう(臨阨相擠行自及也)!」
王甫と王萌の父子は杖下で死にます。
段熲も自殺しました。
陽球は王甫の死体を夏城門で僵磔(死体を切り刻む刑)に処し、牓(榜。立て札)に「賊臣王甫」と大書しました。
王甫の財産は全て没収され、妻子は皆、比景に移されます。
王甫を誅殺した陽球は曹節等を弾劾する上奏も順に行おうとしました。
そこで中都官従事(『資治通鑑』胡三省注によると、中都官従事は都官従事で、法を犯した百官を検挙しました。東漢中興以降は貴戚の者を専門に追求しました)に命じてこう言いました「まずは権貴・大猾を除き、それから余りを議す(残った者を処理する)。公卿・豪右で袁氏のような児輩(若者)については、従事が自分で処理せよ。校尉を待つ必要はない(従事自辦之,何須校尉邪)。」
この頃、順帝の虞貴人(虞美人)が死に、埋葬されました。虞貴人は沖帝の母です。
百官が喪(葬事・埋葬)に参加して還る時(城外の墳墓に虞貴人を埋葬して帰る時)、曹節が道端で切り刻まれた王甫の死体を見ました。曹節は憤慨して涙を拭き、「我々が自ら互いに食い合う(害し合う)のはいいが、どうして犬にその汁を舐めさせることができるだろう(我曹可自相食,何宜使犬舐其汁乎)!」と言いました。
陽球が虞貴人の葬(葬事。埋葬)に参加して帰還し、夏城門を入った時、曹節が道端で見謁(謁見?)しました。すると陽球が大いに罵って「賊臣・曹節!」と言いました。曹節は車中で涙を拭いて上述の言葉を発しました。
次回に続きます。