東漢時代291 霊帝(二十六) 曹節の反撃 179年(2)

今回は東漢霊帝光和二年の続きです。
 
[(続き)]  虞貴人の喪から還った曹節は諸常侍に「今はとりあえず一緒に(宮中に)入ろう。里舍(自宅)に行くべきではない(勿過里舍也)」と話し、直接入省(入宮)して霊帝にこう言いました「陽球は酷暴の吏なので、以前、三府が免官に当たると上奏しましたが、九江の微功によって再び擢用(抜擢)されました霊帝熹平六年177年参照)。愆過の人(罪過の人。罪を犯した人)は妄作(妄りな行動)を好みます。司隸におくことで毒虐をほしいままにさせるべきではありません(不宜使在司隸以騁毒虐)。」
霊帝は陽球を衛尉に遷すことにしました。
 
この時、陽球は外出して陵園を謁拝していました。
資治通鑑』胡三省注によると、諸陵は全て司隸校尉部にあります。
曹節尚書令に命じて陽球に召拝させ(宮中に招いて任命すること)、詔命を停留させませんでした(即時、陽球を衛尉に任命させました。原文「不得稽留尺一」。「尺一」は詔書です)
 
陽球は急いで召還されたため、霊帝への謁見を求めてこう言いました「臣には清高の行がないのに、意外にも鷹犬の任を蒙りました(「鷹犬之任」は狩猟で使う鷹や犬のような任務で、ここでは姦悪を逮捕する司隸校尉の職を指します)。以前、王甫や段熲を誅しましたが、(彼等は)狐狸小醜なので、まだ天下に宣示するには足りません。臣に一月の時間を貸すことを願います。必ず豺狼(山犬や狼)鴟梟(ふくろう。悪鳥)をそれぞれその辜(罪)に服させます。」
陽球は叩頭して血を流しました。
しかし殿上(宦官)から大声で「衛尉は詔に逆らうのか(衛尉扞詔邪)!」と叱責されました。
叱責が三回繰り返されてから、陽球はやっと任命を受け入れました。
 
この後、曹節、朱瑀等の権勢が再び盛んになりました。
曹節尚書令を兼任します(領尚書令)
 
郎中梁の人審忠(審が姓です)が上書しました「陛下が即位したばかりの時は、万機(諸政務)ができなかったので、皇太后が撫育にいることを念じて(竇皇太后が陛下を養育していることを考慮して)暫く摂政し(権時摂政)、旧中常侍蘇康、管霸が時に応じて(すぐに)誅殄(誅滅)されました。太傅陳蕃と大将軍竇武がその党与を審問したのは、朝政を清めようと志したからです(考其党与志清朝政)。ところが、華容侯朱瑀は事が覚露したと知り(悪事が暴露したと知り)、禍がその身に及んだので、逆謀を興造(造り出すこと)し、王室で乱を為し(作乱王室)、省闥(宮中)を攻撃し(撞蹹省闥)、璽綬を奪い取って陛下を迫脅(脅迫)し、群臣を聚会して(集めて)、骨肉母子の恩を離間させ、しかも陳蕃、竇武および尹勳等を誅しました。その結果、共に城社を割裂し(朱瑀等の宦官が共に国土を割き)、自ら封賞しあい、父子兄弟も尊栄を蒙り、かねてから親厚な者が州郡に分布し、ある者は九列(九卿)に登り、ある者は三司(三公)の位を得るようになりました。(彼等は)禄重位尊の責を思わず、軽率に私門を営し(私利を謀り。原文「苟営私門」)、多く財貨を蓄え、第舍(邸宅)を繕修し、(屋敷が)里に連なって巷を埋め(連里竟巷)、御水(資治通鑑』胡三省注によると、宮苑に入る水を「御水」といいます)を盗み取って漁釣(釣り)のために使い、車馬服玩(車馬、衣服や玩具等の物品)が天家(皇帝の家)を模倣しています(擬於天家)。しかし群公卿士は口を閉ざして声を呑みこみ、敢えて発言する者がいません。州牧郡守は(朱瑀等の)意思に迎合し(承順風旨)、辟召(招聘)選挙は賢人を捨てて愚者を取っています(釈賢取愚)。だから蟲蝗がこのために生まれ、夷寇がこのために起き、天意の憤懣が満ちて十余年を重ねています(天意憤盈積十余年)。頻歳(連年)、上に日食があり、下に地震があるのは、そうすることで人主を譴戒し、覚悟(覚醒)させて無状(善行がない者)を誅鉏(誅滅)させようと欲しているのです。
昔、高宗は雉雊の変によって中興の功を獲ました(「高宗」は商王武丁、「雉雊」は雉の鳴き声です。武丁が成湯を祭った時、雉が鼎に止まって鳴きました。武丁は天の警告だと判断して徳を修め、中興の明主になりました)。最近は神祇(天地神明)が陛下を啓悟(覚悟、覚醒)させ、(陛下が)赫斯の怒を発しました(「赫斯」は帝王が憤怒する様子です。『詩経大雅·皇矣』の「王赫斯怒」が元になっています)。そのため、王甫父子が時に応じて(すぐに)𢧵(斬首)され、路人士女(路上の人や男女)で称善(称賛、賛同)しない者はなく、父母の讎を除いたようでした(父母の仇に報いたように喜びました)(それなのに)陛下がまた孽臣の類を忍び(姦臣を許容し)、悉く殄滅(誅滅)しないことを誠に怪しみます(不思議に思います)
昔、秦は趙高を信じたためにその国を危うくし、呉は刑臣を使ったためその身が禍に遭いました(呉が越を攻めた時、捕虜に舟を守らせたため、呉王餘祭が殺されました)。今は不忍の恩によって夷族の罪を赦しています(誅殺するのが忍びないため姦臣を許容しており、そのような恩寵によって族滅すべき罪を赦しています)。姦謀が一度成ったら、後悔しても及びません(悔亦何及)。臣が郎になって十五年の間、全て耳目で聞見してきました。朱瑀が為してきたことは誠に皇天がこれ以上赦せるものではありません。陛下が漏刻の聴を留め(「漏刻」はわずかな時間です。「漏刻の聴を留める」というのは、意見を聴く時間をわずかでも作るという意味です)、臣の表(上書)を裁省(詳しく見て判断すること)し、醜類を掃滅して天怒に答えることを願います。朱瑀と(臣を)考験(考査、検証)して(臣の)言の通りではないことがあったら、(臣は)湯鑊(釜茹で)の誅を受けて、妻子も皆、徙(流刑)に処され、そうすることで妄言の路を絶つことを願います。」
上書は取り合われず、回答もありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。