東漢時代293 霊帝(二十八) 宦官誅滅失敗 179年(4)

今回で東漢霊帝光和二年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
四月丁酉(二十四日)、天下に大赦しました。
 
上禄長和海(『資治通鑑』胡三省注によると、上禄県は武都郡に属します。和氏は羲和の後代です。または卞和の後代ともいいます)が上書しました「礼によるなら、従祖兄弟(祖父が異なる同世代の親族)は別居して財産を別けるものです(別居異財)(彼等の間では)恩義が既に軽くなり、親族の関係も疎遠になっています(服属疎末)。しかし今、党人の錮は五族に及んでおり、典訓の文(典章制度)から乖離して経常の法(正常な法)にも合いません(既乖典訓之文有謬経常之法)。」
上書を読んだ霊帝は過ちを悟りました。
この後、従祖以下(祖父の兄弟とそれ以下の親族)の党錮が全て解かれました。
 
後漢書霊帝紀』は「丁酉(二十四日)、天下に大赦した。諸党人の禁錮で小功以下は全てこれを除いた」と書いています。「小功」は喪服の種類で、従祖(祖父の兄弟)が死んだ時に着ます。よって、「小功以下」は「従祖以下」と同じ意味になります。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
東平王劉端が死にました。
 
東平王は光武帝の子劉蒼(「献王」。または「憲王」)の家系です。劉蒼の後、懐王劉忠、孝王劉敞と続いて劉端が継ぎました。諡号は頃王です。
後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、劉端の死後は子の劉凱が継ぎましたが、在位四十一年で漢が魏に滅ぼされて崇徳侯に落とされました。
東平王の家系は長寿が多く、劉忠の在位年数十一年を除いたら、劉蒼が四十五年、劉敞が四十八年、劉端が四十七年となっています。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、衛尉劉寛を太尉にしました。
 
[十二] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
使匈奴中郎将(『後漢書霊帝紀』では「使匈奴中郎将」、『資治通鑑』では「護匈奴中郎将」です)張脩は南単于呼徵との関係がうまくいかなかったため、独断で単于を斬り、改めて右賢王羌渠を単于に立てました。
 
秋七月、張脩が先に指示を仰がず勝手に単于を誅殺した罪に坐し、檻車で朝廷に招かれて廷尉に送られ、獄に下されて死にました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
以前、司徒劉郃の兄に当たる侍中劉鯈(『資治通鑑』では「劉鯈」ですが、『後漢書霊帝紀』では「劉儵」です)が竇武と共に宦官誅殺を謀ったため、竇武が殺された時に劉鯈も殺されました。
永楽少府陳球が劉郃に言いました「公は宗室の出身で、位が台鼎(三公)に登り、天下が瞻望(嘱望)しています。社稷の鎮衛(国を守る者)がどうして雷同して容認するばかりで、他者の意見に違えずにいられるのでしょう(豈得雷同容容無違而已)。今、曹節等が放縦して害を為しており、しかも久しく(陛下の)左右にいます。また、公(劉郃)の兄である侍中も曹節等によって害を受けました。今なら上表して衛尉陽球を司隸校尉に遷し、順に曹節等を収めて(逮捕して)誅殺することができます。政が聖主から出れば、天下太平は足を挙げて待つだけです(原文「可翹足而待也」。「足を挙げて待つ」というのは、「足を挙げるだけの短い時間しか必要としない」という意味で、わずかな時間の喩えです)。」
劉郃が言いました「凶豎(凶悪な小人)には耳目が多いから、事が会す前に(機会を得る前に。原文「事未会」)、先に禍を受けることを恐れる。」
尚書劉納が言いました「国の棟梁となりながら、傾いて危うくなっても支えなかったら、どうしてこのような相(大臣)が必要でしょうか(原文「傾危不持焉用彼相邪」。『論語』の「危而不扶顚而不持,則将焉用彼相矣」が元になっています)。」
劉郃は承諾して陽球と謀を結びました(共謀しました)
ところが、陽球の小妻(妾)が程璜の娘だったため、曹節等が徐々に情報を得るようになると、程璜に厚い賄賂を贈り、併せて脅迫しました。懼れて追い込まれた程璜は陽球の謀を曹節に告げてしまいます。
 
曹節等が共に霊帝に報告しました「劉郃と劉納、陳球、陽球が書疏(書信)を行き来させて不軌を謀議しています(交通書疏謀議不軌)。」
霊帝は激怒しました。
 
冬十月甲申(十四日)、劉郃、陳球、劉納、陽球が皆、獄に下されて死にました。
 
この事件を『後漢書霊帝紀』はこう書いています「冬十月甲申、司徒劉郃、永楽少府陳球、衛尉陽球、歩兵校尉劉納が宦者誅殺を謀ったが、事が漏れたため、皆、獄に下されて死んだ。」
資治通鑑』は劉納を尚書としていますが、『後漢書張王种陳列伝(巻五十六)』を見ると、尚書劉納はこれ以前に正直(公正実直)によって宦官に逆らったため歩兵校尉になっています。『資治通鑑』の誤りです。
 
[十四] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
巴郡の板楯蛮が叛しました。
朝廷は御史中丞蕭瑗を派遣し、益州刺史を監督して討伐させましたが、勝てませんでした。
 
[十五] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、光禄勳楊賜を司徒に任命しました。
 
[十六] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が幽并二州を侵しました。
 
[十七] 『後漢書霊帝紀』からです。
この年、河閒王(河間王)劉利が死にました。
 
劉利の諡号は安王です。
河間王は章帝の子劉開(孝王)の家系です。劉開の後、恵王劉政、貞王劉建、安王劉利と継ぎました。
後漢書章帝八王伝(巻五十五)』によると、劉利の死後、子の劉陔が継ぎましたが、在位四十一年で魏が漢の禅譲を受けたため、劉陔は崇徳侯に落とされました。
 
[十八] 『後漢書霊帝紀』からです。
洛陽(雒陽)の女子が男児を生み、両頭四臂(二つの頭と四本の腕)がありました。
 
 
 
次回に続きます。