東漢時代293 霊帝(二十八) 宦官誅滅失敗 179年(4)
上禄長・和海(『資治通鑑』胡三省注によると、上禄県は武都郡に属します。和氏は羲和の後代です。または卞和の後代ともいいます)が上書しました「礼によるなら、従祖兄弟(祖父が異なる同世代の親族)は別居して財産を別けるものです(別居異財)。(彼等の間では)恩義が既に軽くなり、親族の関係も疎遠になっています(服属疎末)。しかし今、党人の錮は五族に及んでおり、典訓の文(典章制度)から乖離して経常の法(正常な法)にも合いません(既乖典訓之文有謬経常之法)。」
上書を読んだ霊帝は過ちを悟りました。
この後、従祖以下(祖父の兄弟とそれ以下の親族)の党錮が全て解かれました。
『後漢書・孝霊帝紀』は「丁酉(二十四日)、天下に大赦した。諸党人の禁錮で小功以下は全てこれを除いた」と書いています。「小功」は喪服の種類で、従祖(祖父の兄弟)が死んだ時に着ます。よって、「小功以下」は「従祖以下」と同じ意味になります。
東平王・劉端が死にました。
東平王の家系は長寿が多く、劉忠の在位年数十一年を除いたら、劉蒼が四十五年、劉敞が四十八年、劉端が四十七年となっています。
五月、衛尉・劉寛を太尉にしました。
使匈奴中郎将(『後漢書・孝霊帝紀』では「使匈奴中郎将」、『資治通鑑』では「護匈奴中郎将」です)・張脩は南単于・呼徵との関係がうまくいかなかったため、独断で単于を斬り、改めて右賢王・羌渠を単于に立てました。
秋七月、張脩が先に指示を仰がず勝手に単于を誅殺した罪に坐し、檻車で朝廷に招かれて廷尉に送られ、獄に下されて死にました。
永楽少府・陳球が劉郃に言いました「公は宗室の出身で、位が台鼎(三公)に登り、天下が瞻望(嘱望)しています。社稷の鎮衛(国を守る者)がどうして雷同して容認するばかりで、他者の意見に違えずにいられるのでしょう(豈得雷同容容無違而已)。今、曹節等が放縦して害を為しており、しかも久しく(陛下の)左右にいます。また、公(劉郃)の兄である侍中も曹節等によって害を受けました。今なら上表して衛尉・陽球を司隸校尉に遷し、順に曹節等を収めて(逮捕して)誅殺することができます。政が聖主から出れば、天下太平は足を挙げて待つだけです(原文「可翹足而待也」。「足を挙げて待つ」というのは、「足を挙げるだけの短い時間しか必要としない」という意味で、わずかな時間の喩えです)。」
劉郃が言いました「凶豎(凶悪な小人)には耳目が多いから、事が会す前に(機会を得る前に。原文「事未会」)、先に禍を受けることを恐れる。」
尚書・劉納が言いました「国の棟梁となりながら、傾いて危うくなっても支えなかったら、どうしてこのような相(大臣)が必要でしょうか(原文「傾危不持焉用彼相邪」。『論語』の「危而不扶顚而不持,則将焉用彼相矣」が元になっています)。」
劉郃は承諾して陽球と謀を結びました(共謀しました)。
霊帝は激怒しました。
冬十月甲申(十四日)、劉郃、陳球、劉納、陽球が皆、獄に下されて死にました。
巴郡の板楯蛮が叛しました。
十二月、光禄勳・楊賜を司徒に任命しました。
この年、河閒王(河間王)・劉利が死にました。
劉利の諡号は安王です。
河間王は章帝の子・劉開(孝王)の家系です。劉開の後、恵王・劉政、貞王・劉建、安王・劉利と継ぎました。
次回に続きます。