東漢時代294 霊帝(二十九) 何皇后 180年

今回は東漢霊帝光和三年です。
 
東漢霊帝光和三年
庚申 180
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月癸酉(中華書局『白話資治通鑑』は「癸酉」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
二月、公府(三公府)の駐駕廡(車を止める建物)が自然に壊れました。
『孝霊帝紀』の注によると、南北四十余閒(間。部屋の単位です)が壊れました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
三月、梁王劉元が死にました。
 
劉元の諡号は敬王で、梁節王劉暢(明帝の子)の子孫です桓帝延熹七年164年参照)
劉元の死後、子の劉彌が継ぎましたが、四十年後に魏が漢の禅譲を受け、劉彌は崇徳侯に落とされます。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、江夏蛮が反しました。
 
後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』にはこう書かれています「光和三年、江夏蛮がまた反し、廬江賊黄穰と連結して十余万人で四県を攻没(攻略)した。寇患が年を重ねた。廬江太守陸康がこれを討って破り、残りは全て降散(降伏離散)した。」
後漢書郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列伝(巻三十一)』にはこうあります「廬江賊黄穰等と江夏蛮が連結し、十余万人で四県を攻没した。(朝廷は)陸康を廬江太守に任命した。陸康は賞罰を明確にし(申明賞罰)、黄穰等を撃破した。余党は全て降った。帝霊帝がその功を嘉し、陸康の孫陸尚を郎中にした。」
江夏蛮と黄穰がいつ鎮圧されたのかははっきりしません。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
六月、霊帝が詔を発し、公卿に『尚書』『毛詩』『左氏(春秋左氏伝)』『穀梁春秋(春秋穀梁伝)』に精通できる者をそれぞれ一人挙げさせました。
推挙された者は皆、議郎に任命されます。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋、酒泉郡の表是(県名)地震がありました。
涌水(湧水)が出ました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
八月、繋囚(囚人)で罪(刑)が決していない者に縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。納める量にはそれぞれ差があります。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
(『資治通鑑』では「冬」ですが、『孝霊帝紀』は「冬閏月」としています)、狼弧に孛星(異星。彗星の一種)が現れました。
資治通鑑』胡三省注によると、「狼」は一つの星で、東井の東南に位置します。「弧」は九つの星で、「狼」の東南に位置します。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
鮮卑が幽并二州を侵しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月己巳(初五日)、貴人何氏を皇后に立てました。
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は十一月に書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書霊帝紀』に従って十二月に書いています(胡三省注参照)
 
霊帝が何皇后の兄に当たる潁川太守何進を朝廷に招いて侍中にしました。
何皇后は元々南陽の屠家(屠殺業者)の出身でしたが、選ばれて掖庭後宮に入り、皇子劉辨を生んだため、皇后に立てられました。
『孝霊帝紀』の注は何皇后を「南陽宛の人で車騎将軍何真の娘」と書いています。『皇后紀下』によると、翌年に何皇后の父何真が車騎将軍と舞陽宣徳侯を追号され、皇后の母興が舞陽君に封じられます。
また、『後漢書竇何列伝(巻六十九)』によると、何皇后は何進の異母女弟(父は同じで母が異なる妹)です霊帝中平四年・187年に再述します)
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、霊帝圭と霊昆苑を造ろうとしました。
圭も苑の名です。『資治通鑑』胡三省注によると、東圭苑と西圭苑がありました。東圭苑は周囲千五百歩で、中に魚梁台があります。西圭苑は周囲三千三百歩です。どちらも雒陽宣平門外に位置しました。
 
司徒楊賜が諫めて言いました「先帝の制では、左(東)に鴻池を開き、右(西)に上林を造るものであり、奢侈にもならず過度な節約もせず、そうすることで礼中(過不足がないちょうど相応しい礼)に符合させました(不奢不約以合礼中)。今、郊城の地において規模を増やして苑囿とし(猥規郊城之地以爲苑囿)、沃衍(肥沃な平地)を壊し、田園を廃し、居民を駆り、禽獣を養おう(畜禽獣)としていますが、(これは天子が民に対して)赤子を守るようにするという義(本義)ではないようです(殆非所謂若保赤子之義)。今は城外の苑が既に五六あるので(『資治通鑑』胡三省注によると、西苑、顕陽苑、平楽苑、上林苑、鴻徳苑がありました)(陛下の)情意(気持ち)を満足させて四節に順じることができます(原文「可以逞情意,順四節也」。『資治通鑑』胡三省注によると、「四節」は春蒐、夏苗、秋獮、冬狩を指します。四季ごとの狩猟です)。夏禹の卑宮(夏王禹が質素な宮殿に住んだこと)や太宗の露台の意西漢文帝が露台建設を中止した本意)を思い、下民の労を慰めるべきです(平民の辛苦を労わるべきです)。」
 
上書が提出されると、霊帝は建設を中止しようとして、侍中任芝と楽松に意見を求めました。
後漢書楊震列伝(巻五十四)』は「侍中任芝、中常侍楽松」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注が「楽松は本来、鴻都文学であり、中常侍ではない。袁宏の『後漢紀』が「侍中」としているので、『資治通鑑』はそれに従った」と解説しています。
 
楽松等が答えました「昔、文王の囿は百里でしたが、人はこれを小さいとみなしました。斉宣は五里でしたが(斉宣王の囿は五里でしたが)、人はこれを大きいとみなしました。今、百姓とこれを共にすれば、政事に対して害がありません。」
喜んだ霊帝は新苑の建設を開始しました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
巴郡の板楯蛮が反しました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
蒼梧と桂陽の賊が郡県を攻めました。
 
零陵太守楊琁は馬車数十乗を制作し、排囊(革袋)に石灰を詰めて車に載せ、布索(布で作った縄)を馬の尾に繋げました(繋布索於馬尾)。また、兵車を作って全ての車上で弓弩を引かせました(専彀弓弩)
戦闘が開始すると、馬車を前に進ませました。風に乗って石灰が舞います(原文「順風鼓灰」。馬が走ると車に載せた袋が揺れて中の石灰がまき散らされました)
賊は石灰のために漢軍が見えなくなりました。
そこで漢軍は馬の尾に繋げた布索に火をつけました。布が燃えたため、馬が驚いて賊陣に奔走突入します。
更に後車の弓弩を乱発して鉦鼓を鳴り響かせると、群盗は驚愕して敗北離散しました(原文「波駭破散」。「波駭」は物で水を打った時、次々に水面が動いて波ができる様子で、一斉に驚愕して震撼することを表します)
漢軍は追撃駆逐して無数の者を殺傷し、渠帥の首を斬って晒しました(梟其渠帥)
こうして郡境が平清になります。
 
ところが、荊州刺史趙凱が楊琁を誣告する上奏を行いました。実際には楊琁自ら賊を破ったのではなく、妄りに功績を自分のものにしているという内容です。
楊琁も朝廷に上奏しましたが、趙凱には同党の助けがあったため、朝廷は檻車で楊琁を召還しました。
楊琁は厳しい監視下に置かれたので(防禁厳密)、冤罪を訴える機会がありません。そこで腕を噛んで血を流し、衣服に文章を書いて詳しく賊を破った時の状況を述べ、更に趙凱による讒言についても言及しました。秘かに親属を宮闕に送ってこれを提出させます。
霊帝詔書を発して楊琁を赦し、議郎に任命しました。
逆に趙凱は誣人の罪を受けました。
楊琁は楊喬桓帝永康元年167年参照)の弟です。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代295 霊帝(三十) 呂強の諫言 181年