東漢時代295 霊帝(三十) 呂強の諫言 181年

今回は東漢霊帝光和四年です。
 
東漢霊帝光和四年
辛酉 181
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、初めて騄驥厩丞を置き、郡国の調馬を領受(受け入れ)させました。
資治通鑑』胡三省注によると、「騄驥」は善馬、「調馬」は徴発された馬です。
 
豪右(豪族)が辜榷(他者を妨害して利益を独占すること)したため(豪族が馬を独占した、または馬の売買を壟断したため)、馬一頭の値段が二百万銭に上りました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
二月、郡国が芝英草(瑞祥の草)を献上しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏四月庚子(中華書局『白話資治通鑑』は「庚子」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
交趾の烏滸蛮が久しく乱を為し(光和元年178年)、牧守では制御できなくなりました。
交趾の人梁龍等もまた叛して郡県を攻め破ります。
 
霊帝が詔を発して蘭陵令会稽の人朱儁(「朱雋」と書くこともあります)を交趾刺史に任命しました。
 
朱儁は梁龍を撃って斬りました。
降った者が数万人を数え、交趾が旬月(一月足らず)で全て平定されます。
霊帝はこの功績によって朱儁を都亭侯に封じ、朝廷に召して諫議大夫に任命しました。
 
後漢書霊帝紀』はこの戦いを「交阯刺史朱儁が交阯合浦の烏滸蛮を討ち、これを破った」と書いています。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月庚辰(十九日)、雞子()のように大きな雹が降りました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
秋七月、河南が「鳳皇が新城に現れ、鳥の群れがそれに従った(群鳥隨之)」と報告しました。
朝廷は新城令および三老・力田にそれぞれ差をつけて帛を下賜しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月庚寅朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉劉寛を罷免し、衛尉𢒰を太尉にしました。
 
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は「十月、太尉許郁が相応しくない人材を招聘した罪に坐して罷免された(坐辟召錯繆免)。太常楊賜が太尉になった」と書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書霊帝紀』に従っています。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
閏月辛酉(閏九月初二日)、北宮の東掖庭永巷署で火災がありました。
 
『孝霊帝紀』の注によると、永巷は宮中の官署名です。令が一人おり、宦者が担当しました。秩六百石で、宮婢・侍使を管理します。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
司徒楊賜を罷免しました。
冬十月、太常陳耽を司徒にしました。
 
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は光和三年(前年)に「閏月、楊賜が久しい病のため罷免された。冬十月、太常陳耽を司徒にした」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、閏月(閏九月)は今年のはずです。『資治通鑑』は『後漢書霊帝紀』に従っています。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮮卑が幽并二州を侵しました。
 
檀石槐が死に、子の和連が代わって立ちました。
 
和連の才力は父に及ばず、しかも貪淫(貪婪で際限がないこと。または貪婪好色)でした。
後に鮮卑を出て北地を攻めましたが、北地の人が和連を射殺します。
 
その子騫曼はまだ幼かったため、兄の子魁頭が立ちました。
後に騫曼が成長してから、魁頭と国を争ったため、部衆が離散しました。
魁頭の死後、弟の歩度根が立ちました。
 
これらの事が具体的にいつ起きたのかははっきりしません。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
この年、霊帝後宮に列肆(並んだ商店。商店街)を造りました。
采女に販売させたところ、互いに盗んだり争い合うということが起きました(更相盗竊争闘)
 
霊帝は商估(商賈。商人)の服を着て、飲宴して楽しみました(『資治通鑑』は「これを従えて、飲宴して楽しんだ(従之飲宴為楽)」と書いていますが、『後漢書霊帝紀』には「従之」がありません。ここは『孝霊帝紀』に従いました)
 
また、霊帝は西園で犬と遊び(弄狗)、「進賢冠」を被せて綬を帯びさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、進賢冠が文官が被ります。前の高さは七寸、後ろの高さは三寸、長さは八寸です。
 
更に霊帝は四驢(四頭の驢馬が牽く車)に乗り、自ら轡を操って(園内を)駆け回りました(駆馳周旋)
京師の人々が次々にこれを真似たため、驢馬の値段が高騰して馬と等しくなりました。
資治通鑑』胡三省注は「驢というのは、重い物を載せて遠くに運び(服重致遠)、山谷を上り下りする、野人が使うものである。どうして帝王君子でありながらこれを驂駕(駕御。馬等を操ること)する者がいるだろう」と書いています。
 
霊帝は私財の貯蓄を好み、天下の珍貨を集めました。郡国が貢献する時はいつも先に中署に送らせて「導行費」と名づけます(中署は内署(宮廷の内府)で、珍宝器物を管理しました。霊帝は郡国が貢物を献上する時、先行して別に物品を納めさせました。これを「導行費」といいます)
 
中常侍呂強が上書して諫めました「天下の財において、陰陽から生まれない物はありません(莫不生之陰陽)(全てが)陛下に帰しているのに、どうして公私があるのでしょう。しかし今は中尚方が諸郡の宝を集め、中御府に天下の繒(絹織物)を積み(『資治通鑑』胡三省注によると、中尚方と中御府は少府に属し、天子の私財を管理します)、西園が司農の藏を引き(司農の財を使い)、中厩には太僕の馬が集まっています(『資治通鑑』胡三省注によると、中厩は上述の「騄驥厩」です)。しかも府(官府。朝廷)に送る時はいつも導行の財があるので(所輸之府輒有導行之財)、広く徴発して民が困窮しており、費用が多いのに献物は少なく(調広民困,費多献少)、姦吏がその利に因り(これを利用して利益を得ており)、百姓がその敝を受けています(このために民が疲弊しています)
また、阿媚の臣は私財を献じることを好んでおり(好献其私)(陛下は)阿諛を受け入れて寛大なので(容諂姑息)、ここから(阿媚の臣が)昇進しています(自此而進)。旧典においては、選挙は三府に委任し、尚書は奏を受けて御すだけでした(上奏文を受け取って皇帝に報告するだけでした)(選ばれた者は)試験を受けて任用され、功を成すことを責任とし(受試任用責以成功)、功に察するべきことがなかったら(見るべき功績がなかったら)、初めて尚書にわたして弾劾し(然後付之尚書挙劾)尚書が)廷尉に下して虚実を審査するように請い(覆按虚実)、その罪罰(処罰)を行ったのです。だから三公が(人材を)選ぶ時はいつも掾属と参議し、その行状(履歴、事績)を訊ね、その器能を度し(量り)ました。しかしそれでも職務に対して怠慢で能力がない官員がいて、荒廃して治まらないこともありました(然猶有曠職廃官荒穢不治)
今はただ尚書(人選を)任せており、あるいは詔によって用いることもあります(皇帝が尚書や三公を通さず、詔を発して直接任命することもあります)。このようであったら、三公は選挙の負(責任)から免れることになり、尚書もまた(罪に)坐すことはありません尚書が人選を行っているので三公には元々責任がなく、皇帝が直接人選したら、尚書にも責任がなくなります)。責賞(譴責と褒賞)に帰すところがないのに、どうして空しく自ら労苦するのでしょう(失敗しても譴責がなく、成功しても褒賞がないのに、どうして三公が自ら労苦するでしょう)。」
上書が提出されましたが、霊帝は省みませんでした。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
何皇后は嫉妬心が強かったため(性強忌)後宮の王美人が皇子劉協を生むと、酖(毒)で王美人を殺してしまいました。
霊帝は激怒して何皇后を廃そうとしましたが、諸中官(宦官)が尽力してとりなしたため(固請)、廃位を止めました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
大長秋華容侯曹節が死にました。
中常侍趙忠が換わって大長秋を代行しました(領大長秋)
 
 
 
次回に続きます。