東漢時代295 霊帝(三十) 呂強の諫言 181年
辛酉 181年
春正月、初めて騄驥厩丞を置き、郡国の調馬を領受(受け入れ)させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「騄驥」は善馬、「調馬」は徴発された馬です。
豪右(豪族)が辜榷(他者を妨害して利益を独占すること)したため(豪族が馬を独占した、または馬の売買を壟断したため)、馬一頭の値段が二百万銭に上りました。
二月、郡国が芝英草(瑞祥の草)を献上しました。
交趾の烏滸蛮が久しく乱を為し(光和元年・178年)、牧守では制御できなくなりました。
交趾の人・梁龍等もまた叛して郡県を攻め破ります。
朱儁は梁龍を撃って斬りました。
降った者が数万人を数え、交趾が旬月(一月足らず)で全て平定されます。
六月庚辰(十九日)、雞子(卵)のように大きな雹が降りました。
秋七月、河南が「鳳皇が新城に現れ、鳥の群れがそれに従った(群鳥隨之)」と報告しました。
朝廷は新城令および三老・力田にそれぞれ差をつけて帛を下賜しました。
九月庚寅朔、日食がありました。
太尉・劉寛を罷免し、衛尉・許𢒰を太尉にしました。
『欽定四庫全書・後漢記(袁宏)』は「十月、太尉・許郁が相応しくない人材を招聘した罪に坐して罷免された(坐辟召錯繆免)。太常・楊賜が太尉になった」と書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書・孝霊帝紀』に従っています。
閏月辛酉(閏九月初二日)、北宮の東掖庭永巷署で火災がありました。
『孝霊帝紀』の注によると、永巷は宮中の官署名です。令が一人おり、宦者が担当しました。秩六百石で、宮婢・侍使を管理します。
司徒・楊賜を罷免しました。
冬十月、太常・陳耽を司徒にしました。
『欽定四庫全書・後漢記(袁宏)』は光和三年(前年)に「閏月、楊賜が久しい病のため罷免された。冬十月、太常・陳耽を司徒にした」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、閏月(閏九月)は今年のはずです。『資治通鑑』は『後漢書・孝霊帝紀』に従っています。
檀石槐が死に、子の和連が代わって立ちました。
和連の才力は父に及ばず、しかも貪淫(貪婪で際限がないこと。または貪婪好色)でした。
後に鮮卑を出て北地を攻めましたが、北地の人が和連を射殺します。
その子・騫曼はまだ幼かったため、兄の子・魁頭が立ちました。
後に騫曼が成長してから、魁頭と国を争ったため、部衆が離散しました。
魁頭の死後、弟の歩度根が立ちました。
これらの事が具体的にいつ起きたのかははっきりしません。
霊帝は商估(商賈。商人)の服を着て、飲宴して楽しみました(『資治通鑑』は「これを従えて、飲宴して楽しんだ(従之飲宴為楽)」と書いていますが、『後漢書・孝霊帝紀』には「従之」がありません。ここは『孝霊帝紀』に従いました)。
『資治通鑑』胡三省注によると、進賢冠が文官が被ります。前の高さは七寸、後ろの高さは三寸、長さは八寸です。
京師の人々が次々にこれを真似たため、驢馬の値段が高騰して馬と等しくなりました。
『資治通鑑』胡三省注は「驢というのは、重い物を載せて遠くに運び(服重致遠)、山谷を上り下りする、野人が使うものである。どうして帝王君子でありながらこれを驂駕(駕御。馬等を操ること)する者がいるだろう」と書いています。
霊帝は私財の貯蓄を好み、天下の珍貨を集めました。郡国が貢献する時はいつも先に中署に送らせて「導行費」と名づけます(中署は内署(宮廷の内府)で、珍宝器物を管理しました。霊帝は郡国が貢物を献上する時、先行して別に物品を納めさせました。これを「導行費」といいます)。
中常侍・呂強が上書して諫めました「天下の財において、陰陽から生まれない物はありません(莫不生之陰陽)。(全てが)陛下に帰しているのに、どうして公私があるのでしょう。しかし今は中尚方が諸郡の宝を集め、中御府に天下の繒(絹織物)を積み(『資治通鑑』胡三省注によると、中尚方と中御府は少府に属し、天子の私財を管理します)、西園が司農の藏を引き(司農の財を使い)、中厩には太僕の馬が集まっています(『資治通鑑』胡三省注によると、中厩は上述の「騄驥厩」です)。しかも府(官府。朝廷)に送る時はいつも導行の財があるので(所輸之府輒有導行之財)、広く徴発して民が困窮しており、費用が多いのに献物は少なく(調広民困,費多献少)、姦吏がその利に因り(これを利用して利益を得ており)、百姓がその敝を受けています(このために民が疲弊しています)。
また、阿媚の臣は私財を献じることを好んでおり(好献其私)、(陛下は)阿諛を受け入れて寛大なので(容諂姑息)、ここから(阿媚の臣が)昇進しています(自此而進)。旧典においては、選挙は三府に委任し、尚書は奏を受けて御すだけでした(上奏文を受け取って皇帝に報告するだけでした)。(選ばれた者は)試験を受けて任用され、功を成すことを責任とし(受試任用責以成功)、功に察するべきことがなかったら(見るべき功績がなかったら)、初めて尚書にわたして弾劾し(然後付之尚書挙劾)、(尚書が)廷尉に下して虚実を審査するように請い(覆按虚実)、その罪罰(処罰)を行ったのです。だから三公が(人材を)選ぶ時はいつも掾属と参議し、その行状(履歴、事績)を訊ね、その器能を度し(量り)ました。しかしそれでも職務に対して怠慢で能力がない官員がいて、荒廃して治まらないこともありました(然猶有曠職廃官荒穢不治)。
今はただ尚書に(人選を)任せており、あるいは詔によって用いることもあります(皇帝が尚書や三公を通さず、詔を発して直接任命することもあります)。このようであったら、三公は選挙の負(責任)から免れることになり、尚書もまた(罪に)坐すことはありません(尚書が人選を行っているので三公には元々責任がなく、皇帝が直接人選したら、尚書にも責任がなくなります)。責賞(譴責と褒賞)に帰すところがないのに、どうして空しく自ら労苦するのでしょう(失敗しても譴責がなく、成功しても褒賞がないのに、どうして三公が自ら労苦するでしょう)。」
上書が提出されましたが、霊帝は省みませんでした。
次回に続きます。