東漢時代297 霊帝(三十二) 黄巾挙兵 184年(1)

今回は東漢霊帝中平元年です。六回に分けます。
 
東漢霊帝中平元年
甲子 184
十二月に改元します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、鉅鹿の人張角が黄(道学)を信奉し、妖術を門戸の者に教授して「太平道」と号しました。
張角は呪符の水で人々の病を治しました。病人に跪いて自分の罪を認めさせると(原文「跪拝首過」。「首過」は自分の過ちを認めるという意味です)、ある者はすぐに病が治ったため、民衆が共に神のように信じました。
 
この部分を『後漢書皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』はこう書いています。 
鉅鹿の人張角が「大賢良師」を自称し、黄老の道を信奉して弟子を畜養(養うこと)しました。跪拝して過ちを認めさせ、符水咒設によって病を治療すると、病者の多くが治ったため、百姓が張角を信向(信頼、信仰)しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
張角は弟子を分派して四方を周行させ、絶えず人々を誑誘(誘惑、勧誘)していきました。
十余年の間に徒衆が数十万に上り、青豫八州の人々がことごとく張角に応じます(莫不畢応)。ある者は財産を売りはらって張角の下に奔り(流移奔赴)、信徒が多いため道が塞がりました。張角の下に着くまでに病死した者も万を数えます。
郡県は張角の本意を理解できず、逆に「張角は善道によって教化しており、民が帰心するところとなっている」と言いました。
 
太尉楊賜が司徒だった時(楊賜は霊帝熹平五年176年に司徒になり、翌年罷免されました)、こう上書しました「張角は百姓を誑曜(騙して惑わすこと)しており、大赦に遇っても悔い改めることなく(遭赦不悔)(その教えが)徐々に蔓延しています(稍益滋蔓)。今、もし州郡に下して(命じて)捕討させたら、恐らく更に騷擾(混乱)させ、その患(害。叛乱)を速く成させることになります。刺史二千石に切敕(厳令)し、流民を簡別(選んで別けること)してそれぞれを本郡に護帰(護送)させることで、その党を孤弱(孤立弱小)にするべきです。その後、渠帥を誅せば、労すことなく平定できます。」
しかしちょうど楊賜が司徒の位を去ったため、上書は禁中に留められて実行されませんでした。
 
後に司徒掾劉陶も上書して再び楊賜の建議を述べました「張角等の陰謀はますます甚だしく、四方の私言(秘かな言葉)は『張角等は秘かに京師に入って朝政を窺い見ており(竊入京師覘視朝政)、鳥声獣心が隠れて共鳴している』と言っています。州郡はこの事を忌諱(忌避。嫌って避けること)して報告しようとせず、ただ互いに告語(通知)し合うだけで敢えて公文にする者はいません。(陛下は)明詔を下し、張角等を重募(重賞を懸けて求めること)して国土を賞とし、敢えて回避する者は同罪にするべきです。」
 
霊帝張角の事に全く気を留めていなかったため、詔を発して劉陶に『春秋』の條例(道理を述べている事例、または規則)を整理させました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉陶は『春秋』に精通しており、訓詁(古典の言葉の意義を解釈すること)を為したこともあったため、『春秋』の條例を整理するように命じられました。
 
やがて、張角は三十六方を置きました。大方は一万余人、小方は六七千で、それぞれが渠帥(指導者)を立てました。
 
資治通鑑』は「方は将軍のようなもの(方猶将軍也)」、『後漢書皇甫嵩朱儁列伝』は「方は将軍号のようなもの(方猶将軍号也)」と書いています。下の文に「大方馬元義」とあるので、「大方」「小方」は「将軍」に近い意味を持つようです。しかし「方」は組織の単位を表す言葉でもあり、「三十六方を置いた」というのは、「三十六の組織に分けた」と解釈することもできると思います。
大きな組織は「大方」、小さな組織は「小方」と呼び、それぞれの渠師も「大方(大将軍)」「小方(小将軍)」と呼んだようです。
また、『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は「三十六坊」としていますが、『資治通鑑』は『後漢書』に従って「方」としています。
 
資治通鑑』に戻ります。
張角は「蒼天は既に死に、黄天が立つことになる。歳は甲子にあり、天下が大吉になる蒼天已死,黄天当立,歳在甲子,天下大吉)」という言葉を流布させました。
京城の寺門(官署の門)や州郡の官府(の門)に全て白土で「甲子」という文字を書きます。
 
まず大方馬元義等が荊揚州の数万人を招集し、集合する期日を決めて鄴で挙兵する計画が立てられました(期会発於鄴)
馬元義はしばしば京師を往来し、中常侍封諝、徐奉等を内応にして、三月五日に内外から共に蜂起することを約束します。
 
春、張角の弟子済南の人唐周が上書して張角等の計画を密告しました。
資治通鑑』胡三省注は「袁宏の『後漢紀』では『済陰の人唐客』としている」と書いていますが、『欽定四庫全書後漢記』では「済陰の人唐周」です。『後漢紀』の版本によって異なるようです。
 
朝廷は馬元義を逮捕して雒陽で車裂に処しました。
『欽定四庫全書後漢記』では、唐周が密告したために霊帝張角の逮捕を命じ、それを知った張角等が挙兵しました。その後、五月乙卯になって「黄巾の馬元義等が京都で謀反したが、皆誅に伏した」と書いています。
資治通鑑』は『後漢書皇甫嵩朱儁列伝』に従っており、張角の挙兵の前に馬元義が処刑されています。
 
霊帝は三公と司隸に詔を発し、宮省(禁中)の直衛から百姓におよぶまで張角の道太平道に仕えた者を調査させ、千余人を誅殺しました。
また、冀州に命じて張角等を追求逮捕させます。
 
張角等は事が既に露見したと知り、昼夜、使者を派遣して諸方に一斉蜂起の命令を伝えました(晨夜馳敕諸方一時俱起)
皆、黄巾をつけて標幟(標示。目印)にしたため、時の人は「黄巾賊」と呼びました。
 
二月、張角が天公将軍を自称し、張角の弟張宝が地公将軍を、張宝の弟張梁が人公将軍を称しました。
資治通鑑』胡三省注によると、「張角の弟が張梁張梁の弟が張宝」とすることもあります。また、胡三省注は「袁宏の『後漢紀』では張角の弟を張良張梁ではありません)張宝としている」と書いていますが、『欽定四庫全書後漢記』を見ると「張角の弟張梁張梁の弟張宝」と書かれています。
 
黄巾はそれぞれの所在地で官府を焼き払い、聚邑を劫略(侵犯略奪)しました。
州郡は拠り所を失い(失拠)、長吏の多くが逃亡します。
旬月(一月足らず)の間に天下が響応して京師を震動(震撼)させました。
 
後漢書霊帝紀』は黄巾の挙兵を「中平元年春二月、鉅鹿の人張角が『黄天』を自称した。その部帥(恐らく「部隊」の意味です。「渠帥(指導者)」かもしれません)は三十六方あり、皆、黄巾をつけて同日に反叛した」と書いています。
後漢書霊帝紀』の注は「三十六方」を「三十六万余人」と書いていますが、大方は一万余人、小方は六七千なので、実際には三十六万に達していないはずです。
 
以下、『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
安平と甘陵では、国人がそれぞれの王を捕えて賊に呼応しました。
当時の安平王は劉続桓帝元嘉元年151年参照)、甘陵王は劉忠霊帝熹平五年176年参照)です。二人とも後に釈放されます。

三月戊申(初三日)、河南尹何進を大将軍に任命し、慎侯に封じました。
何進は左右羽林と五営(屯騎歩兵越騎長水射声)の営士を率いて都亭(『孝霊帝紀』によると、都亭は洛陽(雒陽)にあります)に駐軍し、器械(武器装備)を修理して京師を鎮めます。
また、函谷、太谷(大谷)、広成、伊闕、轘轅、旋門、孟津、小平津に八関都尉の官を置きました。
 
霊帝が群臣を招いて会議を開きました。
北地太守皇甫嵩は、「党禁(党人の禁錮を解き、中藏の銭と西園厩の馬を増出して軍士に下賜するべきだ」と考えました。
皇甫嵩は皇甫規の兄の子です。
資治通鑑』胡三省注によると、中藏府令は少府に属し、宦者が担当しました。中藏の銭は禁中の金銭です。西園厩の馬は騄驥厩の馬です。
 
霊帝中常侍呂強に計を問いました。
呂強が答えました「党錮を行って久しくなり(党錮久積)、人情(人心)が怨憤しているので、もしも赦宥(赦免)しなかったら、軽率に張角と合謀(共謀)し、変がますます大きくなって後悔しても救えなくなります(為変滋大悔之無救)。今はまず左右の貪濁の者を誅し、党人を大赦し、刺史二千石の能否(能力)を料簡(見極めて選ぶこと)することを請います。そうすれば盗を平定できないはずがありません(則盗無不平矣)。」
霊帝は懼れてこれに従いました。
 
壬子(初七日)、天下の党人を赦免し、諸徙者(党人やその妻子で辺境に遷された者)を還らせました。
但し、張角だけは赦免されませんでした。
 
霊帝が詔を発し、公卿に馬弩を供出させました。また、列将の子孫および吏民で戦陣の略(戦略)に明るい者を挙げさせ、公車(官署)を訪ねさせました。
 
同時に天下の精兵を徴発し、北中郎将盧植を派遣して張角を討たせ、左中郎将皇甫嵩と右中郎将朱儁に潁川の黄巾を討たせました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の中郎将には三署中郎将がいました。五官署と左右署の中郎将です(五官中郎将と左右中郎将です)。また、使匈奴中郎将がいました。
北中郎将は河北の黄巾を討つため、この時に置かれました。
 
 
 
次回に続きます。