東漢時代298 霊帝(三十三) 呂強の死 184年(2)
そのため宦官は憚り畏れることがなく、次々に宮室を模倣した第宅(邸宅)を建てました。
ある日、霊帝が永安候台に登ろうとしました。
宦官は霊帝が自分の住居を眺め見ることを恐れたため、中大人・尚但(尚が氏、但が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、尚氏は師尚父(呂尚)の後代です。後漢に尚士、尚子平がいました)を使って諫めさせました「天子は高い所に登るべきではありません。高い所に登ったら百姓が虚散します(天子不当登高,登高則百姓虚散)。」
「百姓虚散」の「虚散」は「流亡、離散」の意味だと思います。『資治通鑑』胡三省注によると、『春秋潛潭巴』に「天子は台榭を高くしない。台榭を高くしたら下の者がこれに叛す(天子毋高台榭,高台榭則下叛之)」という言葉があります。
本来は、天子が台榭を高くしたら民が労役を苦にして離反するという意味ですが、尚但は敢えて曲解して霊帝を制止しました。
封諝と徐奉の事が発覚すると、霊帝は諸常侍を詰問・譴責してこう言いました「汝曹(汝等)は常に党人が不軌を為そうと欲していると言った。だから皆、禁錮を命じ、あるいは誅に伏した者もいた。今、党人は改めて国のために用いられ、汝曹は逆に張角と通じた。斬るべきではないか(為可斬未)?」
諸常侍は一人一人引退を求め(人人求退)、それぞれ州郡にいる宗親や子弟を呼び戻しました。
趙忠、夏惲等が共に呂強を讒言しました「呂強は党人と共に朝廷について議論し、しばしば『霍光伝』を読んでいる(霍光は皇帝の廃立を行いました)。呂強の兄弟は各地で皆、貪穢(貪汚)を行っている」という内容です。
霊帝は中黄門に武器を持たせて呂強を招かせました。
呂強は自殺しました。
霊帝は呂強の宗親を逮捕して財産を没収しました。
向栩は逮捕されて黄門北寺獄に送られ、殺されました。
郎中・中山の人・張鈞が上書しました「窺い思うに(竊惟)、張角が兵を興して乱を為し、万民がこれに楽附したのは(喜んで従ったのは)、全て十常侍が多くの父兄・子弟・婚親(婚姻関係にある者)・賓客を放って州郡を典拠(監督・占拠)させ、財利を辜榷(集めること。壟断すること)して百姓を侵掠(侵犯略奪)していることが源(原因)です。百姓の冤(冤罪や怨み)を告訴する場所がないので、不軌(叛逆)を謀議し、集まって盗賊になったのです。十常侍を斬って頭を南郊に掲げることで百姓に謝し(謝罪し)、使者を派遣して天下に布告するべきです。そうすれば、師旅を待つことなく(出兵せずに)大寇を自ら消滅させることができます。」
霊帝は張鈞の上書を諸常侍に見せました。
諸常侍は皆、冠を脱いで裸足で頓首すると、自ら雒陽の詔獄に入り、家財を出して軍費の助けにすることを乞います。
御史が霊帝の意思に迎合して、「張鈞は黄巾道を学んだ」と上奏しました。
張鈞は逮捕されて拷問を受け(收掠)、獄中で死にました。
『資治通鑑』胡三省注は「十常侍」についてこう書いています「当時は張譲、趙忠、夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典の十二人が中常侍だった。『十常侍』というのは大数を挙げたのである(おおよその数である)」。
夏四月、楊賜が寇賊に坐して(黄巾挙兵の責任を問われて)罷免されました。
太僕・弘農の人・鄧盛が太尉になります。
『孝霊帝紀』の注によると、鄧盛の字は伯能です。
霊帝は楊賜を臨晋侯に、劉陶を中陵郷侯に封じました。
司空・張済を罷免し、大司農・張温を司空に任命しました。
皇甫嵩は長社に進んで守りを固めました。
『資治通鑑』は春に書いており、張鈞の官は「侍中」ではなく「郎中」としています。
汝南の黄巾が邵陵で太守・趙謙を破りました。
広陽の黄巾も幽州刺史・郭勳と太守・劉衛を殺しました。
次回に続きます。