東漢時代299 霊帝(三十四) 長社の戦い 184年(3)
皇甫嵩は兵が少なかったため、軍中の人々が皆、恐れを抱きます。
賊(黄巾)は草地の中に営塁を構えました(原文「依草結営」。背が高い草の中に隠れるように陣を構えたのだと思います)。
そこで皇甫嵩が軍吏を集めてこう言いました「戦には奇変(常道を越えた変化)がある。重要なのは兵の衆寡ではない(兵有奇変,不在衆寡)。今、賊は草地に営を構えた(依草結営)。容易に風火を為すことができる。もし夜に乗じて縦焼すれば(火を放って焼き払えば)、必ず大いに驚乱するだろう。そこを我々が兵を出して撃ち、四面から一つになれば(四面俱合)、田単の功も成せるはずだ。」
田単は戦国時代・斉の将です。火牛の計で燕軍を撃退しました(東周赧王三十六年・前279年参照)。
その夜、ちょうど大風が吹きました。
同時に秘かに鋭士を包囲の外に出させ、火を放って大呼させます。
包囲の外で火が上がると、城壁の上でも燎(かがり火。たいまつ)を挙げて呼応しました。
朝廷は皇甫嵩を都郷侯に封じました。
曹操は若い頃から機警(機智・鋭敏)で権数があり、しかも任俠放蕩で行業(徳行学業。または正業)を治めませんでした。そのため、世の人々は曹操を特別だとは思いませんでしたが、太尉・橋玄と南陽の人・何顒だけは異なる見方をしていました。
橋玄が曹操に言いました「天下はもうすぐ乱れる。命世の才(天命に順じて世に現れた人材)でなければ救うことができない(天下将乱,非命世之才,不能済也)。これを安定させることができるのは、君にかかっているのではないか(天下を安定させるのは恐らく君だろう。原文「能安之者,其在君乎」)。」
許劭は人倫(人物の品評)を好み、多くの人を賞識(能力を認めて称賛すること)してきました。従兄の許靖と共に高名が知られており、二人で郷党の人物を覈論(深く論評すること)して品題(能力の高低、序列)を更新しました。汝南ではこれを俗に「月旦評」と呼びました(「月旦」は毎月の朔日です。月の初めの日に品評したので「月旦評」といいます。『資治通鑑』胡三省注は「後に州郡が置いた『中正(中正官。人材を評価・選考する官です)』はこれが元になった」と解説しています)。
かつて許劭が郡の功曹になりました。郡府の人々はそれを聞いて、皆、節操を改め、行動を飾りました(善い評価を得るためです)。
しかし許劭は曹操の為人を軽視して答えませんでした。
それを聞いた曹操は大いに喜んで去りました。
『資治通鑑』胡三省注は許劭の言葉を「(曹操を評して)絶世の才と言っている。天下が治まっていればその能力を尽くして世に用いられ、天下が乱れたらその智を発揮して時代の雄となることができる(天下治則尽其能為世用,天下乱則逞其智為時雄)」と解説しています。
朱儁が黄巾を攻撃した時、護軍司馬(『資治通鑑』胡三省注によると、「護軍司馬」は司馬の官に就いて一軍を監護する者です)・北地の人・傅燮が上書しました「臣が聞くに、天下の禍は外からではなく、全て内から興るものです。だから虞舜は先に四凶を除き、その後、十六相を用いました(舜は共工、驩兜、三苗、鯀の四凶を放逐しました。十六相は高陽氏の才子八人(蒼舒、隤敱、檮戭、大臨、厖降、庭堅、仲容、叔達。これを八元といいます)と高辛氏の才子八人(伯奮、仲堪、叔献、季仲、伯虎、仲熊、叔豹、季貍。これを八愷といいます)を指します。以上、胡三省注参照)。悪人が去らなければ善人が進むことができないというのは明らかです(明悪人不去,則善人無由進也)。
今、張角が趙・魏で起き、黄巾が六州で乱していますが、これは全て宮内で釁(禍患)が生まれて禍が四海に拡がったのです(釁発蕭牆而禍延四海者也)。臣は戎任(軍の任務)を受け、辞(陛下の命)を奉じて罪を討ち(奉辞伐罪)、始めて潁川に至ってから、戦えば勝てないことがありませんでした(始到潁川戦無不尅)。たとえ黄巾が盛んでも、廟堂の憂となるには足りません。臣が懼れるのは、治水においてその源から始めないため、末流がその広さをますます増していくことです。陛下は仁徳寛容なので忍べないことが多くあり(多所不忍)、そのため閹豎(宦官)が権を弄んで忠臣が進めなくなっています。誠に張角を梟夷(斬首誅滅)させて、黄巾に服を変えさせても(黄巾を帰順させても)、臣が憂いることはますます深くなります(甫益深耳)。なぜでしょうか(何者)。邪と正の人は国を共にするべきではなく、それは冰(氷)と炭が器を同じにできないようなものだからです。彼等は正人の功が顕著になったら危亡の兆が現れることを知っているので、皆、辞を巧みにして説を飾り、共に虚偽を長じさせます。孝子でも噂が頻繁に至れば疑われ(孔子の弟子・曾子の故事です)、市の虎も三夫によって形成されるものです(市には虎がいるはずがないのに、三人が「市に虎がいる」といえば信じてしまう、という意味です)。もし真偽を詳察(詳しく考察すること)しなかったら、忠臣に再び杜郵の戮があるでしょう(杜郵は秦将・白起が冤罪のために自殺した場所です。東周赧王五十八年・前257年参照)。陛下は虞舜による四罪の挙を思い、速やかに讒佞の誅を行うべきです。そうすれば善人が進もうと思い、姦凶が自ら消滅します(則善人思進,姦凶自息)。」
趙忠がこの上書を見て憎みました。
霊帝は傅燮の諫言を覚えていたため罪を加えませんでしたが、封侯もしませんでした。
次回に続きます。