東漢時代303 霊帝(三十八) 各地の乱 185年(1)
乙丑 185年
春正月、大疫に襲われました。
琅邪王・劉據が死にました。
二月己酉(初十日)、南宮の雲台で大きな火災がありました。火は半月経ってやっと消えます。
庚戌(十一日)、楽城門で火災がありました。
『資治通鑑』胡三省注は、「城」は「成」の誤りで、「楽成門」「楽成殿門」を指すと解説しています。城門ではなく、南宮の中門です。
癸亥(二十四日)、広陽門の外屋(外側の屋根、または建物)が自然に崩れました。
楽安太守・陸康が上書して諫めました「昔、魯宣(春秋時代・魯宣公)が畮に税をかけたら蝝災(蝗害。「蝝」は蝗の幼虫です)が自ずから生まれ、哀公が賦を増やしたら孔子がこれを非としました(反対しました)。どうして民物を聚奪(集め奪うこと)して無用の銅人を営み、聖戒を捐捨(損ない捨てること)して自ら亡王の法を踏襲することがあるのでしょう。」
内倖(皇帝の寵臣。ここでは宦官を指します)が「陸康は亡国の喩えを引用して聖明を比喩しており、大不敬に当たります」と讒言したため、陸康は檻車で召還されて廷尉に送られました。
しかし侍御史・劉岱が上書して弁解したため、陸康は刑を免れて田里に帰ることができました(または「罷免されて田里に帰されました」。原文「得免帰田里」)。
陸康は陸続(明帝永平十四年・71年参照)の孫です。
天下の田に一畒あたり十銭の税が課されることになりました。
ところが、不合格な物品があると、黄門常侍がいつも(該当する州郡を)譴責させ、それを理由に強制的に値を下げて安く買ったため、元の価格の十分の一二にしかなりませんでした。
(納めた物品が不合格だったた州郡が)再び宦官に売っても、宦官が(やはり厳しく検査して)すぐに受け取らないため、材木が腐って積み上げられ、何年経っても宮室が完成しませんでした。
刺史や太守も私調(各自の徴発)を増やしたため(勝手に賦税を増やしたため。原文「復増私調」)、百姓が呼嗟(呼号哀嘆)しました。
刺史・二千石および茂才・孝廉の遷除(任命昇進)においては全て「助軍」「脩宮(修宮。宮殿の修築)」の銭を納めさせ、大郡の太守は銭二三千万に及び、その他の官の金額もそれぞれ差をつけて定められました。
官に就く者は西園を訪ねて価格の評定を終えてから(諧價)赴任できるようになります。
清廉を守る者が官に就かないことを乞うても(任官を辞退しても)、全て強迫して派遣しました。
当時、河内の人・司馬直が新たに鉅鹿太守に任命されました。司馬直には清名があったため、朝廷は額を減らして三百万を要求します(減責三百万)。
詔を受けた司馬直は悵然して(失望して)こう言いました「民の父母となりながら逆に百姓を割剝(搾取)して時の要求を満足させるのは、私には忍べない(堪えられない。原文「為民父母而反割剝百姓以称時求,吾不忍也」)。」
司馬直は病と称しましたが、朝廷は許しませんでした。
司馬直は孟津まで来ると当世の失(失政、弊害)を述べ尽くす上書を行い、薬を飲んで自殺しました。
上書が提出されると、霊帝は暫く「脩宮銭」の徴集を中止しました。
朱儁を右車騎将軍に任命しました。
張角の乱があってから、各地で盗賊が並び起ちました。
博陵の張牛角、常山の褚飛燕および黄龍、左校、于氐根、張白騎(張晟。献帝建安十年・205年参照)、劉石、左髭文八(または「左髭丈八」)、平漢大計、司隸縁城、雷公、浮雲、白雀、楊鳳、于毒、五鹿、李大目、白繞、眭固、苦蝤の徒がおり(これらは多くが綽名です)、数えきれないほどになります。
大きい集団は二三万人、小さい集団でも六七千人を擁していました。
張牛角と褚飛燕が軍を合わせて癭陶を攻めました。
『資治通鑑』に戻ります。
河北諸県がそろって害を被りましたが、朝廷は討伐できませんでした。
しかし張燕(張飛燕)が使者を京師に送って投降を乞う上書を提出したため、朝廷は張燕を平難中郎将に任命し、河北諸山谷の諸事を管理させ、毎年、孝廉を推挙する権利を与えて、計吏を朝廷に派遣させました(使領河北諸山谷事,歳得挙孝廉計吏)。
司徒・袁隗を罷免しました。
三月、廷尉・崔烈を司徒に任命しました。
当時の三公は往往にして常侍や阿保(乳母)を通して西園に金銭を納めたので、その官職を得ることができました。
段熲、張温等も功勤(功労)・名誉がありましたが、先に貨財を納めてから公位に登りました。
崔烈は傅母(上述の「阿保」と同じかどうかはわかりません。下の記述を見ると、程夫人といいます)を通して銭五百万を納めたので、司徒になることができました。
傍にいた程夫人が応えました「崔公は冀州の名士です。どうして官を買おうとするでしょう(豈肯買官)。私のおかげでこれを得たのに、逆に美事を知らないのですか(美事だと思わないのですか。満足しないのですか。原文「頼我得是,反不知姝邪」)。」
この後、崔烈の名声栄誉は急速に衰えました。
北宮伯玉等が三輔を侵しました。
『資治通鑑』に戻ります。
霊帝は詔を発して公卿百官を集め、この意見について討議させました。
議郎・傅燮が厳しい口調で言いました「司徒を斬らなければ天下は安定しません(斬司徒天下乃安)!」
尚書が傅燮を弾劾する上奏を行い、「朝廷で大臣を侮辱した」と訴えました。
霊帝が傅燮に理由を問うと、傅燮はこう答えました「樊噲は冒頓(単于)の悖逆(正道に背くこと)によって憤激思奮し(憤激して思いを奮わせ)、人臣の節を失わなかったのに、それでも季布が『樊噲を斬るべきだ』と言いました(西漢恵帝三年・前192年参照)。今、涼州は天下の要衝で、国家の藩衛です。高祖が初めて興きた時、酈商を使って別に隴右を定めさせました(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。高祖は将軍・酈商を隴西都尉に任命して北地郡を平定させました)。世宗(西漢武帝)が国境を拡げた時は(世宗拓境)、四郡を列置(設置)し(『資治通鑑』胡三省注からです。武帝元狩二年(前121年)、匈奴の渾邪王が投降し、太初元年(前104年)に酒泉と張掖郡を置きました。太初四年(前101年)、休屠王の地を武威郡にしました。後元年(前88年)、酒泉郡を分けて敦煌郡を置きました)、議者はこれを匈奴の右臂を断ったとみなしました。
今、牧御(刺史の政治)が和を失い、一州を叛逆させていますが、崔烈は宰相でありながら、国のためにそれを(叛逆を)止める策を考えようとせず(不念為国思所以弭之之策)、逆に一方万里の土(「一方」は一方面の土地、一帯の意味です)を割棄(放棄)しようと欲しているので、臣は心中で困惑しています(臣竊惑之)。もしも左袵の虜(少数民族。「左袵」は向かって左の襟が上になる服装です)をこの地に住めるようにしたら、兵士が強く甲冑が堅固なので、これを機に乱を為すでしょう(士勁甲堅因以為乱)。これは天下の至慮(最大の憂慮)、社稷の深憂です。もし崔烈が知らなかったのだとしたら、これは極蔽です(「極蔽」は「最大の弊害」です。または、「蔽」は「暗愚」の意味です)。もし知っていて故意に言ったのなら、これは不忠です。」
霊帝は傅燮の意見を称賛して採用しました。
次回に続きます。