東漢時代 孫堅の出征
東漢時代302 霊帝(三十七) 王允 184年(6)
東漢時代304 霊帝(三十九) 董卓 185年(2)
霊帝中平元年(184年)、黄巾賊の帥・張角が魏郡で挙兵しました。神霊があると称して八人の使者を各地に派遣し、善道によって天下を教化して秘かに連絡を取り合い、自ら「黄天泰平」と称します。
三月甲子(「甲子の年・三月」ではないかと思います。中平元年は甲子の年です)、三十六万(「三十六方」が正しいはずです。本編参照)が一旦にして共に挙兵し、天下が響応しました。郡県を焼き払って長吏を殺害します。
漢は車騎将軍・皇甫嵩、中郎将・朱儁を派遣し、兵を率いて討撃させました。
ところが孫堅が乗っていた騘馬(青と白が混ざった馬)が駆けて営に還り、地に倒れて鳴きました(原文「踣地呼鳴」)。
将士が馬に従って草の中に行き、孫堅を見つけます。
孫堅は営に還って十数日後に傷が少し癒えたので、再び出撃しました。
『三国志』本文に戻ります。
汝・潁の賊は困迫(困窮)して宛城に走り、守りを固めました。
漢朝は黄巾討伐の功績によって朱儁を車騎将軍に任命しました。
朱儁はその後、官を重ねて河南尹になります。
朱儁は(皇帝に)召されましたが、太僕を拝命しようとはせず、これを機にこう進言しました「国(国都)は遷してはなりません。必ず天下の望みを裏切り(孤天下望)、山東の結(連合)を成立させることになるので、臣にはその可(利点)が見えません(臣不見其可也)。」
有司(官員)が詰問しました「君を召して受拜(任命)しようとしたのに君はこれを拒み、徙事(遷都の事)を問うていないのに君はこれを陳述した。なぜだ(何也)?」
朱儁が言いました「相国を輔佐するのは、臣が堪えられること(できること)ではありません(副相国非臣所堪也)。遷都が計(良計)ではないことは、臣が急とするところです。堪えられないこと(できないこと)を辞し、臣が急とすることを進言するのは、臣がなすべきことです(辞所不堪,進臣所急,臣之所宜也)。」
有司が問いました「遷都の事は、初めからそのような計はなく、有ったとしても公開されていない(就有未露)。どこで聞いたのだ(何所受聞)?」
朱儁が言いました「相国・董卓が臣のためにこれを説きました。臣は相国から聞いたのです(臣聞之於相国)。」
後に朱儁は太尉になりました。
辺章と韓遂が涼州で乱を為し、中郎将・董卓がこれを防いで討伐しましたが、功績を上げられませんでした。
霊帝中平三年(186年。『資治通鑑』は中平二年に書いています)、朝廷が司空・張温を派遣し、行車騎将軍(車騎将軍代行)に任命して西の韓遂等を討たせました。
この時、孫堅も坐っていたため、前に進み出て張温の耳元でこう言いました「董卓は罪を怖れず、逆に傲慢で大語しています(原文「鴟張大語」。「鴟張」はフクロウが羽を広げる様子で、傲慢・凶暴の意味です)。召してもすぐ至らなかったことを理由に、軍法を述べてこれを斬るべきです(宜以召不時至陳軍法斬之)。」
張温が言いました「董卓はかねてから河・隴の間で威名が知られている。今日これを殺したら、西行(西征)するのに頼るものがなくなる(西行無依)。」
孫堅が言いました「明公は自ら王師を率いて天下を威震させています。何を董卓に頼るのでしょう。董卓が語ることを観るに、明公を必要とせず(不假明公)、上を軽んじて礼がありません。これが一つ目の罪です。辺章と韓遂が跋扈して年を経ており、すぐに進討するべきですが、董卓はまだその時ではないと言い(卓云未可)、軍を妨害して衆を躊躇させています(進軍を滞らせています。原文「沮軍疑衆」)。これが二つ目の罪です。董卓は任を受けたのに功がなく、招きに応じても停留し、しかも傲慢自大です(応召稽留而軒昂自高)。これが三つ目の罪です。古の名将で、鉞を持って衆に臨んでから(軍権を与えられて出征してから。原文「仗鉞臨衆」)、(罪人を)断斬(斬首)せずに威を示した者はいません。だから穰苴が荘賈を斬り、魏絳が楊干を戮(処刑)したのです(どちらも春秋時代の故事です)。今、明公は董卓に対して垂意(留意すること。または意を曲げること)し、すぐ誅を加えずにいます。威刑の欠損はここにあります(あなたが威刑を損なわせています。原文「虧損威刑於是在矣」)。」
孫堅は起ちあがって退出しました。
張温が軍を還しましたが(中平三年)、議者(議論する者達)は軍が敵に臨まなかったので(交戦しなかったので)功賞を定めるべきではないと考えました。但し、孫堅が董卓の三罪を数えて張温に斬るように勧めたと聞き、嘆息しない者はいませんでした。
朝廷は孫堅を議郎に任命しました。
また、漢軍は美陽で辺章・韓遂を大破しているので、「敵に臨まなかった」というのも誤りです。