東漢時代305 霊帝(四十) 車騎将軍趙忠 186年
丙寅 186年
太尉・張延を罷免しました。
三公が京城の外で任命されるのは張温から始まります。
執金吾・甄挙が趙忠に言いました「傅南容(南容は傅燮の字です)は以前、東軍におり、功があったのに封侯されなかったので、天下が失望しました。今、将軍は自ら重任に当たりました。賢才を進めて屈(冤情)を正すことで(進賢理屈)、衆心に副うべきです。」
趙延が傅燮に言いました「南容が少しでも我が常侍に答えれば(迎合すれば)、万戸侯も取るに足らない(不足得也)。」
しかし傅燮は態度を厳粛にして断り(正色拒之)、こう言いました「功があるのに論じられないのは命(天命)だ。傅燮がどうして私賞(個人的な恩恵)を求めることがあるか。」
趙忠は心中でますます恨みを抱きましたが、その名声を憚ったため害を加えることができず、朝廷から出して漢陽太守に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、銅人は倉龍と玄武の闕外に配置され、鐘は雲台と玉堂殿の前に掛けられました。
「天禄(獣の名)」と「蝦蟆」を鋳造しました。「天禄」と「蝦蟆」は平門外の橋東で水を吐き、その水は宮内に注がれました。
「翻車」と「渴烏」を造って橋西に設置しました。「翻車」と「渴烏」は南北の郊路に水を撒きます。これによって百姓が道に水を撒く費用を省きました。
「翻車」は車が回転して水を引き上げる装置、「渴烏」は水を吸い上げる水管です。
また、「四出文銭(貨幣の名)」を鋳造しました。
五月壬辰晦、日食がありました。
秋八月、懐陵(沖帝陵)の上に万を数える雀が集まり(有雀万数)、悲しく鳴いてから互いに戦って殺し合いました(悲鳴因闘相殺)。
冬十月、武陵蛮が叛して郡界を侵しましたが、郡兵が討伐して破りました。
元太尉・張延が宦官に讒言され、獄に下されて死にました。
張温を京師に呼び戻しました。
次回に続きます。