東漢時代305 霊帝(四十) 車騎将軍趙忠 186年

今回は東漢霊帝中平三年です。
 
東漢霊帝中平三年
丙寅 186
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月、江夏の兵趙慈が叛して南陽太守秦頡を殺しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
庚戌(十六日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
太尉張延を罷免しました。
朝廷が使者を派遣し、符節を持って長安で車騎将軍張温を太尉に任命させました。
三公が京城の外で任命されるのは張温から始まります。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と資治通鑑』からです。
朝廷が中常侍趙忠を車騎将軍に任命しました。
 
霊帝趙忠に黄巾討伐の功を評定させました。
執金吾甄挙が趙忠に言いました「傅南容(南容は傅燮の字です)は以前、東軍におり、功があったのに封侯されなかったので、天下が失望しました。今、将軍は自ら重任に当たりました。賢才を進めて屈(冤情)を正すことで(進賢理屈)、衆心に副うべきです。」
趙忠はこの進言を受け入れ、弟の城門校尉趙延を派遣して傅燮に殷勤(厚い情意。親交)を伝えさせました。
趙延が傅燮に言いました「南容が少しでも我が常侍に答えれば(迎合すれば)、万戸侯も取るに足らない(不足得也)。」
しかし傅燮は態度を厳粛にして断り(正色拒之)、こう言いました「功があるのに論じられないのは命(天命)だ。傅燮がどうして私賞(個人的な恩恵)を求めることがあるか。」
趙忠は心中でますます恨みを抱きましたが、その名声を憚ったため害を加えることができず、朝廷から出して漢陽太守に任命しました。
 
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は趙忠が車騎将軍になった事を翌年(中平四年187年)の九月に書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書霊帝紀』に従って本年に書いています。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
霊帝が鉤盾令宋典に南宮の玉堂殿を修築させました。
また、掖庭令畢嵐に四体の銅人を鋳造させ、四つの黄鐘(十二音率の一つ「黄鐘」に合わせた鐘)も鋳造させました。それぞれ容量が二千斛もあります。
資治通鑑』胡三省注によると、銅人は倉龍と玄武の闕外に配置され、鐘は雲台と玉堂殿の前に掛けられました。
 
「天禄(獣の名)」と「蝦蟆」を鋳造しました。「天禄」と「蝦蟆」は平門外の橋東で水を吐き、その水は宮内に注がれました。
 
「翻車」と「渴烏」を造って橋西に設置しました。「翻車」と「渴烏」は南北の郊路に水を撒きます。これによって百姓が道に水を撒く費用を省きました。
「翻車」は車が回転して水を引き上げる装置、「渴烏」は水を吸い上げる水管です。
 
また、「四出文銭(貨幣の名)」を鋳造しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月壬辰晦、日食がありました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月、荊州刺史王敏が趙慈を討伐して斬りました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
車騎将軍趙忠を罷免しました。
 
[] 『後漢書霊帝紀』からです。
秋八月、懐陵(沖帝陵)の上に万を数える雀が集まり(有雀万数)、悲しく鳴いてから互いに戦って殺し合いました(悲鳴因闘相殺)
 
[] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、武陵蛮が叛して郡界を侵しましたが、郡兵が討伐して破りました。
 
[十一] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
元太尉張延が宦官に讒言され、獄に下されて死にました。
 
[十二] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、鮮卑が幽并二州を侵しました。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
張温を京師に呼び戻しました。
 
 
 
次回に続きます。