東漢時代306 霊帝(四十一) 傅燮 187年(1)
丁卯 187年
二月、滎陽賊が中牟令を殺しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、中牟は河南尹に属す県です。
己亥、南宮内殿の罘罳(門闕に繋がる楼閣)が自然に壊れました。
朝廷は何苗を車騎将軍に任命しました。
恐らく、何皇后の母・興(舞陽君)は朱氏に嫁いで朱苗を生み、後に何真に嫁ぎました。この時、朱苗は何氏に改姓します。
耿鄙は治中(治中従事)・程球を信任していましたが、程球は姦利に通じていたため(姦邪によって私利を求めていたため)、士民に怨まれていました。
漢陽太守・傅燮が耿鄙に言いました「使君が統政して日が浅いので、民はまだ教(教化)を知りません。賊は大軍がもうすぐ至ると聞いて、必ず万人が一心になっています。辺境の兵は多くが勇猛なので、その鋭鋒に当たるのは困難です(辺兵多勇其鋒難当)。しかも新合の衆(集結したばかりの我が軍)は上下がまだ和していないので、万一内変があったら、悔いても及びません。(今は)軍を休めて徳を養い、賞罰を明確にすることに務めた方がいいでしょう(不若息軍養徳明賞必罰)。賊が寛挺(緩和)を得たら(我が軍が急攻しないと知ったら)、必ず我々が怖気づいたと判断し、悪人の群れが権勢を争うことになるので、分裂するのは必至です(賊得寛挺,必謂我怯,群悪争勢,其離可必)。その後、已教の民(既に教化した民)を率いて成離の賊(分裂した賊)を討てば、その功は坐して待つことができます。」
耿鄙はこの意見に従いませんでした。
夏四月、耿鄙が行軍して狄道に到りました。
しかし州の別駕(別駕従事)が反して賊に呼応し、耿鄙軍を大破しました。まず程球を殺して次に耿鄙を殺害します。
賊は進軍して漢陽を包囲しました。
城中では兵が少なく食糧も尽きていましたが、傅燮が固守し続けました。
当時、北地の胡騎数千が賊に従って郡を攻撃していました。
しかし皆、傅燮の恩をかねてから思っていたため、共に城外で叩頭し、傅燮を郷里に送り帰すことを求めました。
『資治通鑑』胡三省注によると、傅燮は北地霊州の人です。
傅燮の子・傅幹は十三歳でしたが、傅燮にこう言いました「国家(陛下)が昏乱なので、大人を朝廷に居られないようにしました(令大人不容於朝)。今、自守するには兵が足りません。羌・胡の請いを聴いて郷里に還り、有道(明君)が現れるのをゆっくり待ってそれを輔佐するべきです(徐俟有道而輔之)。」
言い終わる前に傅燮が憤って嘆息し、こう言いました(慨然歎曰)「汝はわしが必ず死ぬと知っているのか(汝知吾必死邪)。聖人とは節に達し、次は節を守るものだ(『春秋左氏伝』の「聖人は節に達し、次は節を守り、下は節を失う(聖達節,次守節,下失節)」が元になっています)。殷紂は暴虐だったが、伯夷は周粟(周の食物)を食べずに死んだ。わしは世乱(乱世)に遭ったが、浩然の志(剛直な精神)を養うことができず、禄を食してきた。それでも難を避けようと欲するのか(又欲避其難乎)。わしがどこに行くというのだ(吾行何之)。必ずここで死ぬ(必死於此)。汝には才智があるから勉めよ(生きて努力せよ。原文「勉之勉之」)。主簿・楊会はわしの程嬰である。」
漢陽の人・王国(「王国」が人名です。『資治通鑑』は「狄道の人」としていますが、『後漢書・孝霊帝紀』『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』とも「漢陽の人」としています。狄道は漢陽郡ではなく隴西郡に属すので、恐らく『資治通鑑』は誤りです。)が元酒泉太守・黄衍を送って傅燮を説得させました「天下は既に漢が有しているのではありません。府君には我々の帥(指導者)になる意思がありませんか(寧有意為吾属帥乎)?」
傅燮は剣に手を置いて黄衍を叱咤し、こう言いました「汝は剖符の臣(国から割符を与えられた臣。太守)でありながら、逆に賊のために説くのか!」
傅燮は左右の部下を率いて兵を進め、陣に臨んで戦没しました。
共に王国を主に推して三輔を寇掠(侵略)します。
寇賊を平定できないため、太尉・張温が罷免されました。司徒・崔烈が太尉になります。
五月、司空・許相を司徒に、光禄勳・沛国の人・丁宮を司空にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、丁宮の字は元雄です。
次回に続きます。