東漢時代307 霊帝(四十二) 區星の乱 187年(2)
『孝霊帝紀』の注によると、上西門外の劉倉の妻が生みました。
元中山相・漁陽の人・張純が将になることを請いましたが、張温はこれに同意せず、涿令・遼西の人・公孫瓉に指揮させます。
薊中を劫略(侵略・略奪)して護烏桓校尉・公綦稠(公綦が姓です)、右北平太守・劉政、遼東太守・楊終(『資治通鑑』では「陽終」ですが、ここは『孝霊帝紀』に従って「楊終」にしました)等を殺し、兵衆が十余万に及んで肥如に駐屯しました。
張挙は天子を称し、張純も彌天将軍・安定王を称しました。州郡に書を送って張挙が漢に代わるべきだと伝え、漢の天子が位を避けることを告げて(要求して)、公卿に張挙等を迎え入れるように命じました。
その後、張挙等は幽・冀二州を侵しました。
秋九月丁酉、天下の繋囚(囚人)で罪(刑)がまだ決まっていない者に命じ、縑(絹の一種)を納めて贖罪させました。
冬十月、長沙賊・區星が将軍を自称しました。衆が一万余人に上り、城邑を包囲攻撃します。
周朝、郭石も徒衆を率いて零・桂(零陵・桂陽)で挙兵し、區星と互いに呼応していました。
漢朝は前後の功を記録して孫堅を烏程侯に封じました。
主簿が進み出て孫堅を諫めましたが、孫堅はこう答えました「太守(孫堅)には文徳がなく、征伐によって功を立てた。郡界を越えて討伐し、異国(他の郡)を保全するのだ(越界攻討以全異国)。これによって罪を獲たとしても、海内において何を恥じる必要があるか(何媿海内乎)。」
孫堅が兵を進めて救援に向かうと、賊は情報を聞いて逃走しました。
十一月、太尉・崔烈を罷免し、大司農・曹嵩を太尉にしました。
十二月、休屠各胡が反しました。
元太丘長・陳寔が死にました。海内から弔問に訪れた者が三万余人に上ります。
陳寔が郷閭にいる時は公平な心で人々の模範になりました(平心率物)。
争訟(訴訟)があったらいつも(民は陳寔に)判正(判決)を求め、(陳寔が)曲直(正否・善悪)を諭して導いたため、退いてから怨みを抱く者はいませんでした。
人々は嘆息してこう言うようになりました「刑罰を加えられることはあっても、陳君が短とするところにはなりたくない(官府から刑罰を加えられることはあっても、陳君から批判されたくはない。原文「寧為刑罰所加,不為陳君所短」)。」
楊賜や陳耽が公卿に任命される度に全ての群僚が祝賀しましたが、二人は陳寔が大位に登っていないことを嘆息し、陳寔より先に任命されたことを慚愧しました。
次回に続きます。