東漢時代308 霊帝(四十三) 州牧 188年(1)
戊辰 188年
二月、孛星(異星。彗星の一種)が紫宮に現れました。
『資治通鑑』胡三省注によると、紫宮は太微で天子の宮を象徴します。
黄巾余賊の郭大等が西河白波谷で挙兵し、太原や河東を侵しました。
太常・江夏の人・劉焉が王室の多故(多難)を見て建議しました「四方の兵寇(兵乱)は、刺史の威(威信)が軽く、(兵乱を)禁じることができないうえに相応しくない人を用いているから(既不能禁,且用非其人)、離叛をもたらしているのです。(刺史を)改めて牧伯を置き、清名の重臣を選んでその任に居させるべきです。」
劉焉は内心で交趾牧になることを望みました。
劉焉は改めて益州牧を望むようになりました。
「分野」は天体を十二に分けて各地に配置したものです。「豕韋(「諏訾」ともいいます。天体を十二に分けた一部で、以下、「降婁」「大梁」等も同じです)」は衛の分野、「降婁」は魯の分野、「大梁」は趙の分野、「実沈」は晋の分野、「鶉首」は秦の分野(益州を含みます)、「鶉火」は周の分野、「鶉尾」は楚の分野、「寿星」は鄭の分野、「大火」は宋の分野、「析木」は燕の分野、「星紀」は越の分野、「玄枵」は斉の分野です。
胡三省が詳しく説明していますが、省略します。
当時は耿鄙(涼州刺史。霊帝中平四年・187年参照)も張懿(并州刺史。上述)も盗賊に殺されていたため、朝廷は劉焉の建議に従い、列卿や尚書から選んで州牧を任命しました。それぞれ本来の秩のまま任に就きます(『資治通鑑』胡三省注によると、列卿の秩は中二千石、尚書の秩は六百石ですが、東漢になって尚書の職任(職責)が列卿よりも重くなっていました)。
ここから州長官の責任や権力が重くなります(州任之重自此而始)。
光武帝時代、匈奴の䤈落尸逐鞮単于(呼韓邪単于。右部薁犍日逐王・比)が東漢に投降しました(光武帝建武二十四年・48年および建武二十六年・50年参照)。『資治通鑑』胡三省注によると、「右部䤈落」は䤈落尸逐鞮単于の支庶の部族のようです。匈奴の右部に住み、「䤈落」を号にしました。
夏四月、汝南葛陂(地名)の黄巾が郡県を攻めて攻略しました。
太尉・曹嵩を罷免しました。
『孝霊帝紀』の注によると、樊陵の字は徳雲といい、胡陽の人です。
六月丙寅、大風が吹きました。
太尉・樊陵を罷免しました。
更に巴郡を侵して郡守・趙部を殺し、犍為に進撃します。
旬月(一月足らず)の間に三郡を破壊し、数万の衆を擁して天子を自称しました。
しかし、益州従事・賈龍が吏民を率いて馬相等を攻め、数日で破って走らせました。馬相は殺され、州界が清静になります(『資治通鑑』は『後漢書・劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』を元にしており、馬相等を破って走らせたとしか書かれていません。しかし『孝霊帝紀』には「馬相を斬った」と明記されています)。
賈龍は吏卒を選んで益州牧・劉焉を迎え入れました。
劉焉は治所を緜竹に遷し、離叛した者を順撫して受け入れ、務めて寛恵を行って人心を収めました。
七つの郡国で大水(洪水)がありました。
次回に続きます。