東漢時代310 霊帝(四十五) 西園八校尉 188年(3)

今回で東漢霊帝中平五年が終わります。
 
[十五] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、射声校尉馬日磾を太尉に任命しました。
馬日磾は馬融の族孫です。族孫は父の兄弟の曾孫、または孫の代に当たる親族です。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
八月、初めて西園八校尉を置きました。
小黄門蹇碩を上軍校尉に、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉に、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉に、議郎曹操を典軍校尉に、趙融を助軍左校尉に、馮芳を助軍右校尉に、諫議大夫夏牟を左校尉に、淳于瓊を右校尉に任命します。
それぞれ蹇碩の指揮下に入りました。
 
黄巾が挙兵してから、霊帝は戎事(軍事)に心を留めていました。
蹇碩は宦官ですが、壮健で武略があったため霊帝に親任され、大将軍でも領属(附属。指揮下に入ること)しました。
 
なお、『後漢書袁紹劉表列伝(巻七十四上)』を見ると、「初めて西園八校尉を置き、袁紹を佐軍校尉(『資治通鑑』では「中軍校尉」)にした」と書かれており、注釈で楽資の『山陽公載記』から「小黄門蹇碩を上軍校尉に、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉に、屯騎校尉鮑鴻を下軍校尉に、議郎曹操を典軍校尉に、趙融を助軍左校尉に、馮芳を助軍右校尉に、諫議大夫夏牟を左校尉に、淳于瓊を右校尉にした」という記述を引用しています。
『山陽公載記』の記述は『後漢書・孝霊帝紀』の注でも引用されています(『孝霊帝紀』の本文は「八月、初めて西園八校尉を置いた」と書いているだけです。注釈が『山陽公載記』を引用して、八校尉について詳述しています)
 
また、『後漢書竇何列伝(巻六十九)』では、「当時、西園八校尉を置き、小黄門蹇碩を上軍校尉に、虎賁中郎将袁紹を中軍校尉に、屯騎都尉(『資治通鑑』では「屯騎校尉」)鮑鴻を下軍校尉に、議郎曹操を典軍校尉に、趙融を助軍校尉(『資治通鑑』では「助軍左校尉」)に、淳于瓊を佐軍校尉(『資治通鑑』では「右校尉」)にした。また、左右校尉がいた」と書いています。
資治通鑑』は『孝霊帝紀』と『袁紹劉表列伝』の注にある『山陽公載記』の記述に従っています(胡三省注参照)
 
三国志魏書武帝紀』は、「金城の辺章、韓遂が刺史や郡守を殺して叛した。衆が十余万になり、天下が騷動(震動、混乱)した。(朝廷が)太祖曹操を召して典軍校尉にした」と書いていますが、辺章と韓遂が叛したのはこれより以前の事です。
 
[十七] 『後漢書霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月(『孝霊帝紀』は「八月」に書いていますが、『資治通鑑』に従って「九月」とします)、司徒許相を罷免し、司空丁宮を司徒に、光禄勳南陽の人劉弘を司空にしました。
『孝霊帝紀』の注によると、劉弘の字は子高で、安衆の人です。『後漢書郡国志四』を見ると、南陽に安衆侯国があります。
 
[十八] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです(上文と同じく、『孝霊帝紀』は「八月」に書いていますが、『資治通鑑』に従って「九月」に書きます)
衛尉條侯董重を票騎将軍(驃騎将軍)にしました。
董重は永楽太后霊帝の母)の兄の子です。
 
[十九] 『後漢書霊帝紀』はここで「九月、南単于が叛して白波賊と共に河東を侵した」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注は、「『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』によると、(翌年)霊帝の死後に(匈奴)於扶羅が白波賊と共に侵攻しているので、『孝霊帝紀』は誤り」と解説しています(翌年再述します)
 
[二十] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。
朝廷が中郎将・孟益を派遣し、騎都尉・公孫瓉を率いて漁陽賊・張純等を討伐させました。
 
[二十一] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月、青徐州の黄巾が再び挙兵して郡県を侵しました。
 
[二十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
望気の者(雲気天象を観測する者)が「京師で大兵が起きて両宮で流血する」と予言しました。
霊帝はそれを抑えようと欲し(欲厭之)、四方の兵を大いに徴発して平楽観(『孝霊帝紀』の注によると、平楽観は洛陽(雒陽)城西にありました)の下で講武(武事の講習。閲兵)を行いました。大壇を築いてその上に高さが十丈もある十二重の華蓋(豪華な傘、または屋根)を立てます。壇の東北にも小壇を造り、そこにも九重で高さ九丈の華蓋を立てました。
歩騎数万人を並べ、営を設けて陣を構えます(結営為陳)
 
甲子(十六日)霊帝が自ら皇宮を出て軍に臨み、大華蓋の下で止まりました。大将軍何進も小華蓋の下に入ります。
霊帝は甲冑を着て甲馬(甲冑を着けた馬)に乗り、自分を「無上将軍」と称しました。陣内を三巡してから戻って兵を何進に授けます(原文「以兵授進」。兵権を何進に与えたのだと思います。兵器を何進に渡したのかもしれません)
 
霊帝が討虜校尉蓋勳に問いました「わしはこのように講武(閲兵)をしたが、如何だ(吾講武如是何如)?」
蓋勳が言いました「臣が聞くに、先王は徳を顕示して兵を観ませんでした(閲兵しませんでした。武力を誇示しませんでした。原文「曜徳不観兵」)。今、寇が遠くにいるのに近くに陣を設けても、果毅(果敢剛毅)を明らかにするには足りません。ただ武を濫用しただけです(祇黷武耳)。」
霊帝はこう言いました「素晴らしい(善)。君に会うのが晩かったことを恨む。初め(閲兵をする前)群臣にこのような言はなかった(恨見君晚,群臣初無是言也)。」
 
蓋勳が袁紹に言いました「上(陛下)は甚だ聡明です。ただ左右の者に(耳目を)覆われているだけです(但蔽於左右耳)。」
そこで蓋勳は袁紹と共に嬖倖(皇帝の近臣、宦官)を誅殺する策を謀りました。しかし蹇碩が懼れを抱いたため、蓋勳を朝廷から出して京兆尹に任命しました。
 
後漢書虞傅蓋臧列伝(巻五十八)』は「蓋勳は当時、宗正劉虞、佐軍校尉袁紹と共に禁兵を管理していた。そこで蓋勳が劉虞と袁紹に話をした」と書いていますが、劉虞は既に、幽州牧になっており、宗正も兵を管理する官ではないので、『資治通鑑』は劉虞の名を省いています(胡三省注参照)
 
[二十三] 『資治通鑑』からです。
十一月、涼州賊・王国が陳倉を包囲しました。
 
霊帝が詔を発して再び皇甫嵩を左将軍に任命しました。
皇甫嵩は前将軍董卓を監督し、兵を合わせて四万人で王国に対抗しました。
 
『孝霊帝紀』は、「涼州賊・王国が陳倉を包囲した。右将軍・皇甫嵩がこれ(陳倉)を救った」と書いていますが、「左将軍」の誤りです(『孝霊帝紀』も翌年には「左将軍」と書いています)。また、王国が陳倉の包囲を解くのは翌年の事です。
 
[二十四] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。
朝廷が下軍校尉・鮑鴻を派遣して葛陂の黄巾を討たせました。
 
[二十五] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。
巴郡の板楯蛮が叛しました。
朝廷は上軍別部司馬・趙瑾を派遣して討伐・平定させました。
 
[二十六] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
張純と丘力居が青冀四州を侵して略奪を行いました。
霊帝は詔を発して騎都尉公孫瓉に討伐させます。
 
公孫瓉は属国の石門(『資治通鑑』胡三省注によると、「属国」は「遼東属国」、「石門」は山の名です)で戦って大勝しました。張純等は妻子を棄て、塞を越えて逃走します。
公孫瓉は張純等が奪った男女を全て取り返しました。
 
公孫瓉は追撃して深入りしましたが、後続がなかったため、逆に遼西管子城で丘力居等に包囲されました。
二百余日後に食糧が尽きて軍が壊滅し、士卒の死者が十分の五六に及びました。
 
 
 
次回に続きます。