東漢時代311 霊帝(四十六) 霊帝の死 189年(1)

今回は東漢霊帝中平六年です。八回に分けます。
 
東漢霊帝中平六年
己巳 189
 
[] 『資治通鑑』からです。
董卓皇甫嵩に言いました「陳倉が危急なので、速やかに救うことを請います。」
皇甫嵩はこう言いました「それは違う(不然)。百戦百勝するよりも戦わずに人の兵を屈服させた方がいい(百戦百勝不如不戦而屈人兵)。陳倉は小さいが、城の守りは堅固で備えがあるから、まだ容易には攻略できない(未易可抜)。王国は強いが、陳倉を攻めて下せなかったらその衆が必ず疲弊する。疲弊してから撃つのが全勝(完勝)の道だ。なぜ救う必要があるのだ(将何救焉)。」
 
王国は八十余日にわたって陳倉を攻めましたが攻略できませんでした。
 
春二月、王国の衆が疲弊したため、陳倉の包囲を解いて去りました。
皇甫嵩が兵を進めてこれを撃とうとすると、董卓が反対して言いました「いけません(不可)。兵法においては、窮寇(困窮した敵)は迫ってはならず(追いつめてはならず)、帰衆(帰る兵)は追ってはならないものです(窮寇勿迫,帰衆勿追)。」
皇甫嵩が言いました「それは違う(不然)。以前、わしが撃たなかったのはその鋭を避けるためだ。今これを撃つのはその衰(衰弱)を待ったからだ。撃つのは疲師(疲弊した軍)であって帰衆ではない。また、王国の衆は逃走しようとしており、闘志がない。整によって乱を撃つのは、窮寇を相手にするのではない。」
 
皇甫嵩は単独で進撃して董卓を後拒(後援、後衛)にしました。
皇甫嵩が連戦して王国を大破し、一万余級を斬首します。
後漢書・孝霊帝紀』はこの戦いを「左将軍・皇甫嵩が陳倉で王国を大破した」と書いています。
 
董卓は大いに恥じ入って恨みを抱き、ここから皇甫嵩との間に対立が生まれました。
 
韓遂等は共に王国を廃し、元信都令漢陽の人閻忠を脅迫して諸部を督統(統率)させました。
しかし閻忠が病死してから、韓遂等はしだいに権勢利益を争うようになり、互いに殺し合って勢力を衰弱させました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
幽州牧劉虞は州部に着いてから使者を鮮卑に送って利害を説き、張挙と張純の首を送るように要求しました。代わりに厚く褒賞を加えることを約束します。
 
丘力居等(丘力居は烏桓の大人です)は劉虞が来たと聞いて喜び、それぞれ訳(通訳)を派遣して自ら帰順しました。
資治通鑑』はここで「張挙と張純は塞を出て逃走し、他の者は皆、降散(投降解散)した」と書いていますが、張挙と張純は前年に塞を越えて逃走しており、上記でも鮮卑に使者を送って張挙と張純の首を要求しているので、二人は当時、鮮卑に居たはずです。
 
劉虞は朝廷に上書して諸屯兵を解散させましたが、降虜校尉公孫瓉だけを留め、歩騎一万人を率いて右北平に駐屯させました。
資治通鑑』胡三省注によると、公孫瓉は石門の勝利(前年)によって騎都尉から降虜校尉に遷されていました。
 
三月、張純の客王政が張純を殺し、劉虞を訪ねて首を届けました。
後漢書・孝霊帝紀』は「幽州牧・劉虞が漁陽賊・張純を購斬した」と書いています。「購」は奨金を懸けて求めること、「斬」は斬首です。
尚、張挙がこの後どうなったのかは分かりません。
 
公孫瓉は烏桓を掃滅しようと志していましたが、劉虞が恩信による招降を欲していたため、両者の間に対立が生まれました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』からです。
下軍校尉・鮑鴻が獄に下されて死にました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丙子朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
太尉馬日磾を罷免しました。
朝廷は幽州に使者を送って幽州牧劉虞を現地で太尉に任命し、容丘侯に封じました。
 
『欽定四庫全書・後漢(袁宏)』は「三月己丑、光禄・劉虞を司馬・領幽州牧(兼幽州牧)に任命し、張純を撃たせた」と書いており、四月に劉虞を現地で太尉にしたという記述はありません。
資治通鑑』は『孝霊帝紀』に従っています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
蹇碩が大将軍何進を嫌ったため、諸常侍と共に霊帝を説得し、何進を派遣して西の韓遂を撃たせようとしました。
霊帝はこれに従います。
しかし何進が秘かにその謀を知ったため、袁紹を派遣して徐兗二州の兵を集め、袁紹の帰還を待ってから西に向かうと上奏して、出征を先延ばしにしました。
 
[] 『後漢書・孝霊帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
これ以前に霊帝は数人の皇子を失っていました。
そこで、何皇后が生んだ子劉辯は(皇宮から出して)道人(道術の士)史子眇の家で養わせました。劉辯は「史侯」と呼ばれます。
 
王美人が生んだ子劉協は董太后が自ら養い、「董侯」と呼ばれました。
 
群臣が太子を立てるように霊帝に求めた時、霊帝は劉辯が軽佻(軽率)で威儀がなかったため、劉協を立てたいと思いましたが、躊躇して決められませんでした。
この頃、霊帝が病を患って重症になったため、蹇碩に劉協を託しました。
 
丙辰(十一日)霊帝が南宮嘉徳殿で死にました。三十四歳です。
資治通鑑』胡三省注によると、嘉徳殿は南宮の九龍門内にありました。
 
霊帝が死んだ時、蹇碩が宮内にいました。蹇碩何進を誅殺して劉協を立てようと思い、何進と事を計る必要があるという理由で人を送って何進を迎え入れさせました。
何進はすぐに車を向かわせます。
しかし蹇碩の司馬潘隠が何進と旧交があったため、何進を迎え入れた時、目で合図を送りました。
驚いた何進は車を駆けさせて儳道(近路)から営に帰ると、兵を率いて百郡邸(各郡国の官員が上京した時に住む邸宅がある場所)に入り、その地に駐留したまま病と称して入宮を拒否しました。
 
戊午(十三日)、皇子劉辯が皇帝の位に即きました。年は十四歳です。諡号がないので以下、「少帝」と書きます(『後漢書・孝霊帝紀』『孝献帝紀』も「少帝」と書いています)
『孝霊帝紀』は劉辯の年を十七歳としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、張璠の『漢紀』が「帝の年は十四」としており、『資治通鑑』はこれに従っています。
 
何皇后を尊んで皇太后にしました。何太后が摂政します太后臨朝)
 
天下に大赦し、中平六年から光熹元年に改元しました。
 
皇弟劉協を勃海王に立てました。この時まだ九歳です。
 
後将軍袁隗を太傅に任命し、大将軍何進と共に尚書の政務を主管させました(参録尚書事)
 
 
 
次回に続きます。