東漢時代312 霊帝(四十七) 蹇碩誅殺 189年(2)
袁氏は累世の貴寵を受けており(『資治通鑑』胡三省注が解説しています。袁氏は袁安が司空と司徒に、子の袁敞が司空に、孫の袁湯が司空・司徒・太尉に、袁湯の子・袁逢が司空になり、少子・袁隗も三公になりました)、豪桀が袁紹と従弟の虎賁中郎将・袁術に帰心していたため、何進は袁紹等を信任していました。
何進は広く智謀の士を集め、何顒、荀攸および河南の鄭泰等二十余人を招きました。何顒を北軍中候に、荀攸を黄門侍郎(『資治通鑑』胡三省注によると、給事黄門侍郎は秩六百石で、皇帝の侍従や左右の者を管理しました。宮中に仕えて内外の情報の伝達をします。献帝が即位してから侍中と給事黄門侍郎の定員を各六人にしました。それ以前は定員が決められていませんでした)に、鄭泰を尚書に任命し、全て腹心にします。
蹇碩は何進の動きを疑って不安になりました。そこで中常侍・趙忠、宋典等に書を送ります「大将軍兄弟は国制を掌握して朝廷を専断しており(秉国専朝)、今は天下の党人と謀って先帝の左右の者を誅殺し、我曹(我々)を掃滅しようとしています。ただ碩(私)が禁兵を典じているので(統率しているので)、暫くは沈吟(躊躇)しているのです。今、共に上閤(省閤。宮門)を閉じて、急いで捕えて誅すべきです。」
中常侍・郭勝(『資治通鑑』胡三省注によると、「郭勝」は「郭脈」「郎勝」と書くこともあります)は何進の同郡の人で、何太后と何進が貴幸に及んだは郭勝の力があったからでした。郭勝は何氏を信頼して親しくしていたため、趙忠等と議論して蹇碩の計に従わないことにしました。逆に蹇碩の書を何進に示します。
董太后が政事に関与しようとした時、いつも何太后が禁塞(禁止、阻止)したため、董太后が憤怒してこう罵りました「汝が今、輈張(傲慢)でいられるのは、汝の兄(何進)に頼っているからだ(怙汝兄耶)。私が票騎に命じて何進の頭を断たせるのは手を返すようなものだ(容易なことだ。原文「如反手耳」)。」
五月、何進が三公と共に上奏しました「孝仁皇后(董太后)は元中常侍・夏惲等を州郡と交通(交流)させ、財利を奪い集めて(辜較財利)全て西省(永楽宮)に入れています。故事によるなら、蕃后は京師に留まることができません(蕃后は諸侯王の后です。董太后は霊帝の母で解瀆亭侯・劉萇の后です)。本国に宮を遷すことを請います。」
これらの事件があったため、民間は何氏に帰心しなくなりました。
辛西(十七日)、孝霊皇帝を文陵に埋葬しました。
大雨が降りました(雨水)。
秋七月、甘陵王・劉忠が死にました。
劉忠は諡号を献王といいます。黄巾が蜂起した際に捕えられましたが、暫くして釈放されました。しかし嗣子(後嗣)が黄巾に害されたため、劉忠の死後、王位に即く者がなく、献帝建安十一年(206年)になって後嗣がいないという理由で正式に国を廃されます(霊帝熹平五年・176年および霊帝中平元年・184年参照)。
司徒・丁宮を罷免しました。
次回に続きます。