東漢時代313 霊帝(四十八) 政変 189年(3)
辛未(二十八日)、司隷校尉・袁紹が兵を率いて偽司隷校尉・樊陵(張譲等が任命した司隷校尉です)、河南尹・許相および諸閹人(宦官)を捕え、少長(長幼)に関わらず全て斬りました(下述しますが、『資治通鑑』ではここまでが戊辰(二十五日)の出来事です)。
張讓、段珪等がまた少帝や陳留王を脅して小平津に走りました(以下、『孝霊帝紀』は「辛未(二十八日)」に書いていますが、『資治通鑑』では「庚午(二十七日)」です。「辛未(二十八日)」は少帝が皇宮に帰る日なので、『孝霊帝紀』の誤りです)。
『孝霊帝紀』の注によると、当時、「侯が侯ではなくなり、王が王ではなくなり、千乗万騎が北邙に上る(侯非侯,王非王,千乗万騎上北邙)」という童謡が流行りました。北邙は雒陽北の山で、『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、小平津は北邙の更に北に位置します。少帝、陳留王や公卿が雒陽の北に出奔することを予言した童謡です。
天子が飢渴していたので、閔貢が羊を殺して進めます。
閔貢が厳しい口調で張讓等を譴責し、こう言いました「君は閹宦の隷、刀鋸の残でありなから(宦官という奴隷で、刑を受けた身でありながら)、汚れた泥を越え(汚れた立場から越権し。原文「越従洿泥」)、日月(皇帝)を輔佐して仕え(扶侍日月)、国恩(皇帝の恩)を弄んで顕示し(売弄国恩)、賎しい身から高貴に上り(階賎為貴)、帝主を劫迫(脅迫)し、王室を蕩覆(転覆)させ、とりあえず息をつなぎ(原文「假息漏刻」。「假息」は絶え絶えになった息をなんとかつなぐこと、「漏刻」は短い時間です)、河津に魂を遊ばせている。亡新(王莽の新朝)以来、姦臣賊子で君のような者はいたことがない。今、速やかに死なないようなら、わしが汝を射殺しよう(今不速死,吾射殺汝)。」
本文に戻ります。
袁紹が何進に進言しました「以前、竇武が内寵を誅滅しようと欲して逆に害されたのは、ただ言語の漏泄に坐したのです(情報が漏れたのが原因です。原文「但坐言語漏泄」)。五営の兵士は皆、中人(宦官)に畏服しているのに、竇氏はかえってこれを用いたので、自ら禍滅を取ることになりました(霊帝建寧元年・168年参照)。今は将軍の兄弟(何進と何苗)が並んで勁兵(強兵)を領しており、部曲の将吏は皆、英俊名士で、喜んで力と命を尽くし(楽尽力命)、事は掌中にあります(事在掌握)。これは天賛(天祐)の時です。将軍は一挙して天下のために患を除き、後世に名を垂らす(残す)べきです。(この好機を)失ってはなりません。」
しかし何皇后は同意せず、こう言いました「中官が禁省(禁中)を統領するのは、古から今に至るまで、漢家の故事なので、廃してはなりません。そもそも、先帝(霊帝)が天下を棄てた(崩御した)ばかりなのに、私がどうして姿を明らかにして士人(男)と共に事に対処できるでしょう(我柰何楚楚與士人共對事乎)。」
何太后の母・舞陽君や何苗はしばしば諸宦官から賄賂を受け取っていたため、何進が宦官誅殺を欲していると知り、頻繁に何太后に報告して宦官を庇い、またこう言いました「大将軍は勝手に左右の者を殺し、専権して社稷を弱くしています(専殺左右,擅権以弱社稷)。」
何太后は心中で疑ってその通りだと思うようになりました。
何進は権貴を得たばかりで、以前から中官を敬憚(敬いながら恐れ憚ること)していたため、外に対しては大名(宦官誅殺の名声)を慕いながら(望みながら)内心では決断できず(雖外慕大名而内不能断)、結局、久しく事が決定されませんでした。
何進はこれに同意しました。
主簿・広陵の人・陳琳が諫めて言いました「諺に『目を覆って雀を捕る(原文「掩目捕雀」。自分の目を覆えば雀が見えなくなるので、雀も自分が見えないはずだ、と思って雀を捕りに行くことです。自分を騙すことの比喩として使われます)』とあります。微物でも騙して志を得ることはできないのに(小さな物でも騙して手に入れることはできないのに)、国の大事ならなおさらです。どうして詐術によって為すことができるでしょう(夫微物尚不可欺以得志,況国之大事,其可以詐立乎)。今、将軍は皇威を集め(総皇威)、兵要(兵権)を握り、(その様子は)龍が昇って虎が歩くようで(原文「龍驤虎歩」。この「龍」は大きな馬の意味ともいわれています)、(将軍の)考えしだいで万事を自由にできます(原文「高下在心」。高くするのも低くするのも自由に決断できるという意味です)。これは洪爐(大炉)を焚いて毛髪を焼くようなものです(此猶鼓洪爐燎毛髪耳)。ただ速やかに雷霆を発し、果断に権を行えば(行権立断)、天人がこれに順じます。それなのに逆に利器(鋭利な武器)を委釋(放棄)して改めて外助を徴集したら、大兵が聚会(集結)してから、強者が雄となります。これはいわゆる干戈(武器)を逆に持って他人に柄を与えるというもので、成功するはずがありません(所謂倒持干戈授人以柄,功必不成)。ただ乱階(乱の根源。禍根)となるだけです。」
何進は諫言を聞き入れませんでした。
典軍校尉・曹操も袁紹等の策を聞くと笑ってこう言いました(『三国志・魏書一・武帝紀』の注から引用します)「閹豎の官(『資治通鑑』では「宦者の官」です)は古今において有るべきだ(宦官は昔も今もいて当然だ。原文「古今宜有」)。ただ世主が権寵を与えて今のような状況にするべきではなかったのだ。その罪を治めるのなら、元悪を誅すべきであって、一人の獄吏がいれば足りる。どうして紛紛(混乱、雑乱の様子)と外兵を召す必要があるのか。これを全て誅そうと欲したら、事が必ず宣露(露見。漏洩)する。私にはその失敗が見える(私は失敗すると分かっている。原文「吾見其敗也」)。」
次回に続きます。