東漢時代313 霊帝(四十八) 政変 189年(3)

今回も東漢霊帝中平六年の続きです。
 
[十五] 大きな政変が起きます。まずは『後漢書霊帝紀』から簡単に書きます。
八月戊辰(二十五日)中常侍張讓、段珪等が大将軍何進を殺しました。
そこで虎賁中郎将袁術が東西宮を焼き、諸宦者を攻めます。
庚午(二十七日)、張讓、段珪等が少帝および陳留王を脅して北宮徳陽殿に移りました。
何進の部曲の将匡が車騎将軍何苗と朱雀闕下で戦い、何苗が敗れて(呉匡が)これを斬りました。
辛未(二十八日)司隷校尉袁紹が兵を率いて偽司隷校尉樊陵張譲等が任命した司隷校尉です)、河南尹許相および諸閹人(宦官)を捕え、少長(長幼)に関わらず全て斬りました(下述しますが、『資治通鑑』ではここまでが戊辰(二十五日)の出来事です)
 
張讓、段珪等がまた少帝や陳留王を脅して小平津に走りました(以下、『孝霊帝紀』は「辛未(二十八日)」に書いていますが、『資治通鑑』では「庚午(二十七日)」です。「辛未(二十八日)」は少帝が皇宮に帰る日なので、『孝霊帝紀』の誤りです)
『孝霊帝紀』の注によると、当時、「侯が侯ではなくなり、王が王ではなくなり、千乗万騎が北邙に上る(侯非侯,王非王,千乗万騎上北邙)」という童謡が流行りました。北邙は雒陽北の山で、『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、小平津は北邙の更に北に位置します。少帝、陳留王や公卿が雒陽の北に出奔することを予言した童謡です。
 
尚書盧植が張讓、段珪等を追い、数人を斬りました。残った者は河に身を投じて死にます。
『孝霊帝紀』の注によると、天子が京城から出るのを見た河南中部掾閔貢が騎兵を率いて追撃し、北に向かって河上黄河の辺)に到りました。
天子が飢渴していたので、閔貢が羊を殺して進めます。
閔貢が厳しい口調で張讓等を譴責し、こう言いました「君は閹宦の隷、刀鋸の残でありなから(宦官という奴隷で、刑を受けた身でありながら)、汚れた泥を越え(汚れた立場から越権し。原文「越従洿泥」)、日月(皇帝)を輔佐して仕え(扶侍日月)、国恩(皇帝の恩)を弄んで顕示し(売弄国恩)、賎しい身から高貴に上り(階賎為貴)、帝主を劫迫(脅迫)し、王室を蕩覆(転覆)させ、とりあえず息をつなぎ(原文「假息漏刻」。「假息」は絶え絶えになった息をなんとかつなぐこと、「漏刻」は短い時間です)、河津に魂を遊ばせている。亡新(王莽の新朝)以来、姦臣賊子で君のような者はいたことがない。今、速やかに死なないようなら、わしが汝を射殺しよう(今不速死,吾射殺汝)。」
恐れた張譲等は叉手(両手を胸の前で重ねる礼)して再拝叩頭し、天子に向かって「臣等は死します。陛下は自愛してください(臣等死,陛下自愛)」と言ってから、河に身を投げて死にました。
 
本文に戻ります。
帝と陳留王劉協は夜の間、蛍の光に従って数里を歩き、民家の露車を得たので共にそれに乗りました。
辛未(二十八日。「辛未」が重複しています)(帝が)皇宮に還り、天下に大赦して光喜から昭寧に改元しました。
 
以下、何進の死から皇帝出奔と帰還まで、『資治通鑑』から詳述します(一部『三国志・魏書一・武帝紀』からも引用します)
 
袁紹何進に進言しました「以前、竇武が内寵を誅滅しようと欲して逆に害されたのは、ただ言語の漏泄に坐したのです(情報が漏れたのが原因です。原文「但坐言語漏泄」)。五営の兵士は皆、中人(宦官)に畏服しているのに、竇氏はかえってこれを用いたので、自ら禍滅を取ることになりました霊帝建寧元年168年参照)。今は将軍の兄弟何進何苗が並んで勁兵(強兵)を領しており、部曲の将吏は皆、英俊名士で、喜んで力と命を尽くし(楽尽力命)、事は掌中にあります(事在掌握)。これは天賛(天祐)の時です。将軍は一挙して天下のために患を除き、後世に名を垂らす(残す)べきです。(この好機を)失ってはなりません。」
何進は何太后に報告して中常侍以下の宦官を全て罷免し、三署郎を用いて欠員になった職務を補うように請いました。
しかし何皇后は同意せず、こう言いました「中官が禁省(禁中)を統領するのは、古から今に至るまで、漢家の故事なので、廃してはなりません。そもそも、先帝(霊帝)が天下を棄てた崩御した)ばかりなのに、私がどうして姿を明らかにして士人(男)と共に事に対処できるでしょう(我柰何楚楚與士人共對事乎)。」
何進は何太后の意に違えるのが難しいため、とりあえず放縦な者だけを誅殺しようとしました。
 
しかし袁紹は中官が至尊(皇帝・太后と親近な立場におり、至尊の命を下に伝えたり、下の意見を上に伝達する立場にいるので(出納号令)、今のうちに全て廃さなかったら必ず後の患になると考えました。

太后の母舞陽君や何苗はしばしば諸宦官から賄賂を受け取っていたため、何進が宦官誅殺を欲していると知り、頻繁に何太后に報告して宦官を庇い、またこう言いました「大将軍は勝手に左右の者を殺し、専権して社稷を弱くしています(専殺左右,擅権以弱社稷。」
太后は心中で疑ってその通りだと思うようになりました。
 
何進は権貴を得たばかりで、以前から中官を敬憚(敬いながら恐れ憚ること)していたため、外に対しては大名(宦官誅殺の名声)を慕いながら(望みながら)内心では決断できず(雖外慕大名而内不能断)、結局、久しく事が決定されませんでした。
 
袁紹等がまた何進のために計策を練りました。董卓等の四方の猛将や諸豪傑を多数招き、それぞれに兵を率いて京城に向かわせ、何太后を脅かすという内容です。
何進はこれに同意しました。
主簿広陵の人陳琳が諫めて言いました「諺に『目を覆って雀を捕る(原文「掩目捕雀」。自分の目を覆えば雀が見えなくなるので、雀も自分が見えないはずだ、と思って雀を捕りに行くことです。自分を騙すことの比喩として使われます)』とあります。微物でも騙して志を得ることはできないのに(小さな物でも騙して手に入れることはできないのに)、国の大事ならなおさらです。どうして詐術によって為すことができるでしょう(夫微物尚不可欺以得志,況国之大事,其可以詐立乎)。今、将軍は皇威を集め(総皇威)、兵要(兵権)を握り、(その様子は)龍が昇って虎が歩くようで(原文「龍驤虎歩」。この「龍」は大きな馬の意味ともいわれています)(将軍の)考えしだいで万事を自由にできます(原文「高下在心」。高くするのも低くするのも自由に決断できるという意味です)。これは洪爐(大炉)を焚いて毛髪を焼くようなものです(此猶鼓洪爐燎毛髪耳)。ただ速やかに雷霆を発し、果断に権を行えば(行権立断)、天人がこれに順じます。それなのに逆に利器(鋭利な武器)を委釋(放棄)して改めて外助を徴集したら、大兵が聚会(集結)してから、強者が雄となります。これはいわゆる干戈(武器)を逆に持って他人に柄を与えるというもので、成功するはずがありません(所謂倒持干戈授人以柄,功必不成)。ただ乱階(乱の根源。禍根)となるだけです。」
何進は諫言を聞き入れませんでした。
 
典軍校尉曹操袁紹等の策を聞くと笑ってこう言いました(『三国志魏書一武帝紀』の注から引用します)「閹豎の官(『資治通鑑』では「宦者の官」です)は古今において有るべきだ(宦官は昔も今もいて当然だ。原文「古今宜有」)。ただ世主が権寵を与えて今のような状況にするべきではなかったのだ。その罪を治めるのなら、元悪を誅すべきであって、一人の獄吏がいれば足りる。どうして紛紛(混乱、雑乱の様子)と外兵を召す必要があるのか。これを全て誅そうと欲したら、事が必ず宣露(露見。漏洩)する。私にはその失敗が見える(私は失敗すると分かっている。原文「吾見其敗也」)。」
 
 
 
次回に続きます。