東漢時代314 霊帝(四十九) 董卓東進 189年(4)

今回も東漢霊帝中平六年の続きです。
 
[十五(続き)] 以前、霊帝董卓を召して少府に任命しようとしました(『資治通鑑』胡三省注によると、中平六年(本年。霊帝崩御前)の事です)
しかし董卓は上書してこう言いました「(臣が)率いている湟中の義従(漢に帰順した少数民族や秦胡の兵は、皆、臣を訪ねて『牢直(食糧)が行き届かず(牢直不畢)、稟賜(賞賜)が断絶しているので、妻子が飢え凍えています』と言っており、臣の車を牽挽(牽引)して(京師に)行けないようにしています。羌胡は心中が悪劣で態度が犬のようなので(憋腸狗態)、臣には禁止することができません(彼等を止められません)。よって(この状況に)順じて安慰(按撫)し、状況が変わったらまた報告します(原文「増異復上」。状況が増したり異なったらまた報告するという意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、「増異復上」というのは当時の上奏文の結末に使われた常語です)。」
朝廷は董卓を制御できませんでした。
 
霊帝が病に倒れてから、璽書詔書によって董卓并州牧に任命し、その兵を皇甫嵩に属させるように命じました。
董卓が再び上書しました「臣は誤って天恩を蒙り、軍を統率して十年になるので(掌戎十年)、士卒の大小が慣れ親しんで久しくなり(相狎彌久)、臣の畜養(養育)の恩を恋して、臣のために一旦(一朝)の命を奮っています(臣のために命をかけて尽力しています)。これを率いて北州に向かい、辺垂で效力(尽力)することを乞います。」
 
皇甫嵩の従子(甥)皇甫酈(『資治通鑑』胡三省によると、「皇甫邐」と書くこともあります)皇甫嵩に言いました「天下の兵柄(兵権)は大人皇甫嵩董卓だけにありますが、今、怨隙(怨恨対立)が既に結ばれており、共存できない形勢です(勢不俱存)董卓は詔を受けて兵を皇甫嵩に)委ねるように命じられたのに(または「兵を放棄するように命じられたのに」。原文「被詔委兵」)、上書して(兵を率いることを)自ら請いました。これは命に逆らうことです(此逆命也)。彼は京師の政乱を度して(量って)いるので、敢えて停滞して前に進まないのです(敢躊躇不進)。これは姦を抱くことです(此懐姦也)。この二者(逆命と懐姦)は刑が免除されるべきではありません(刑所不赦)。しかもその凶戾無親(凶暴かつ無情)には、将士が附いていません。大人が今、元帥として(王国討伐の際、董卓皇甫嵩の監督下に入りました)、国威を持ってこれを討てば(杖国威以討之)、上は忠義を明らかにし、下は凶害を除くことになるので、成功しないはずがありません(無不済也)。」
皇甫嵩はこう言いました「命に違えるのは罪だが、誅を専らにするのも(勝手に誅殺するのも)(罪)がある。この事を顕奏(公開の上奏)して、朝廷にこれを裁かせた方がいい。」
皇甫嵩が上書して報告したため、霊帝董卓を譴責しましたが、董卓はやはり詔に従わず、河東に兵を駐留させて時局の変化を観察しました。
 
霊帝死後)何進董卓を招き、兵を率いて京師に向かわせました。
後漢書竇何列伝(巻六十九)』は「前将軍董卓を招いて関中の上林苑に駐屯させた」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注が「当時、董卓は既に河東に駐留していた。もし上林に駐屯したとしたら、更に西に去ることになる」と解説しています。『後漢書董卓列伝(巻七十二)』は「秘かに董卓を呼び、兵を率いて入朝させた」と書いており、『資治通鑑』は『董卓列伝』に従って「京師に向かわせた」としています。
 
侍御史鄭泰が何進を諫めて言いました「董卓は強暴残忍で仁義が薄く、欲求に限りがありません(強忍寡義志欲無厭)。もし彼に朝政を委ね(若借之朝政)、大事を授けたら、(董卓)凶欲(邪悪な欲望)を恣にして必ず朝廷を危うくします。明公は親徳の重外戚としての徳がある重責)をもってし、阿衡の権(皇帝を輔佐する重臣の大権)に拠り、自分の意思を持って独断し、罪がある者を誅滅廃除できるので(秉意独断誅除有罪)、誠に董卓に頼って資援とするべきではありません。しかも事を留めたら変事が生まれます。殷鑒は遠くありません(原文「殷鑒不遠」。教訓は近くにあるという意味で、竇武の失敗を指します)。速決するべきです(宜在速決)。」
 
尚書盧植董卓を招くべきではないと進言しましたが、何進は全て従いませんでした。
鄭泰は官を棄てて去り、荀攸に「何公の輔佐をするのは容易ではない(何公未易輔也)」と言いました。
 
何進の府掾王匡と騎都尉鮑信はどちらも泰山の人でした。何進は二人を郷里に帰して募兵させます。
また、東郡太守橋瑁を召して成皋に駐屯させ、武猛都尉丁原に数千人を率いて河内に侵攻させました。丁原が孟津を焼き、火が雒陽城中を照らします。
彼等は皆、宦官誅滅を唱えました。
 
以下、『三国志魏書一武帝紀』裴松之注から王匡と橋瑁について書きます。
王匡は字を公節といい、泰山の人です。財を軽んじて施しを好み、任侠によって名が知られていました。大将軍何進の府に招かれてから、何進が符節を渡して使者にしました(進符使)。王匡は徐州で強弩五百を徴発して(再び)西の京師に向かいます(『三国志集解』は「徐州」は「兗州」の誤りで、「王匡は兗州泰山郡で強弩を集めた」と解説しています)
しかし王匡が戻った時ちょうど何進が敗れたため(後述します)、王匡は郷里に還りました。後に家から起って(起家)河内太守に任命されました。『後漢書孝献帝紀』の注に「為袁紹河内太守」とあるので、袁紹によって河内太守に任命されたのかもしれません。
王匡は若い頃、蔡邕と親しく交際していました。
 
橋瑁は字を元偉といい、橋玄の族子(祖父の兄弟の曾孫。または子の世代に当たる親族)です。以前は兗州刺史を勤め、甚だ威恵がありました。
 
資治通鑑』に戻ります。
董卓何進に招かれたと聞くとすぐ道に就き、同時にこう上書しました「中常侍張譲等は幸を盗んで寵を受け(陛下の寵愛を受けて。原文「竊倖承寵」)、海内を濁乱しています。臣が聞くに、湯を揚げて沸騰を止めるより、薪を除いた方がいいといいます(原文「揚湯止沸莫若去薪」。「揚湯止沸」は沸騰した湯を汲んで冷ましてからまた鍋や釜に戻すことです。一時しのぎの方法で湯を冷ますより、薪を除いて火を消した方がいいという意味です)。できものを潰すのは痛いことですが、内部を侵食されるよりもましです(潰癰雖痛勝於内食)。昔、趙鞅は晋陽の甲(兵)を興して君側の悪(国君の近くにいる奸臣)を逐いました春秋時代、晋の趙鞅が荀寅と士吉射を駆逐しました)。今、臣も鐘鼓を鳴らして雒陽に入ります。張譲等を逮捕して姦穢(姦汚。姦邪)を清めることを請います(請收譲等以清姦穢)。」
太后はやはり従いませんでした。
 
何苗何進に言いました「(我々は)始め南陽から来た時、皆、貧賎の身でしたが、省内(宮内。ここでは宦官を指します)に頼って富貴をもたらしました。国家の大事もまた容易ではありません(国家之事亦何容易)。こぼれた水を収めることはできないので、深く考慮するべきです(覆水不收宜深思之)。とりあえず、省内と和しましょう(且與省内和也)。」
 
董卓が澠池に到りました。
しかし何進はますます躊躇して決断できなくなったため、諫議大夫种卲を派遣し、詔を宣布して董卓に進軍を止めさせました。
ところが董卓は詔を受け入れず、前進を続けて河南に到りました。
資治通鑑』胡三省注によると、この「河南」は周の王城を指します。雒陽から遠くありません。
 
种卲は董卓を迎え入れて労い、その機会に軍を還すように諭し命じました。
董卓は変事が起きたと疑い、軍士に命じて武器で种卲を威嚇させます。すると怒った种卲は詔と称して軍士達を叱咤しました。軍士は全て四散します。
种卲は更に前に進んで董卓を質責(譴責詰問)しました。董卓は辞が屈して(答えに詰まって)軍を夕陽亭まで還しました。
資治通鑑』胡三省注によると、夕陽亭は河南城西にあります。
种卲は种暠桓帝時代の司徒)の孫、种拂献帝初平元年・190年)の子です。
 
袁紹何進が計を変えるのではないかと懼れ、脅してこう言いました「交構(恐らく「対立」の意味です)が既に成り、形勢が既に露わになっているのに、将軍はまた何を待とうと欲して早く決しないのですか(復欲何待而不早決之乎)。事が久しくなったら変が生まれ、再び竇氏のようになってしまいます(復為竇氏矣)。」
何進袁紹司隸校尉に任命し、符節を与え(假節)、自由に専断する権利を与えました(専命撃断)。また、従事中郎王允を河南尹にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の司隸校尉は本来、符節を持っていましたが、西漢元帝時代に諸葛豊が司隸になってから、符節が除かれました。今回、袁紹に符紹を与えてその職権を重くしました。
 
袁紹は雒陽の方略武吏(官名)に宦者を司察(視察)させました。また、董卓等に使者を送り、駅馬を駆けさせて「平楽観に兵を進めたい」と上奏するように促しました。
太后は恐れを抱き、全ての中常侍や小黄門を罷免して里舍(私宅)に還らせました。何進が個人的に信任している者だけを留めて省中を守らせます。
 
諸常侍や小黄門は皆、何進を訪ねて謝罪し、一切の処置に従うことを表明しました(唯所措置)
何進が言いました「天下が匈匈(喧噪、批難の様子)としているのは、正に諸君を患いているからだ。今、董卓がもうすぐ到着する。諸君はなぜそれぞれ早く国に就かないのだ(帰らないのだ)。」
袁紹何進に対してこの機に宦官誅滅を決断するように勧めました。しかし再三勧めても何進は許可しませんでした。
 
袁紹は書を送って諸州郡に告示し、何進の意思と偽って中官(宦官)の親属を捕按(逮捕検挙)させました。
 
 
 
次回に続きます。