東漢時代314 霊帝(四十九) 董卓東進 189年(4)
しかし董卓は上書してこう言いました「(臣が)率いている湟中の義従(漢に帰順した少数民族)や秦・胡の兵は、皆、臣を訪ねて『牢直(食糧)が行き届かず(牢直不畢)、稟賜(賞賜)が断絶しているので、妻子が飢え凍えています』と言っており、臣の車を牽挽(牽引)して(京師に)行けないようにしています。羌・胡は心中が悪劣で態度が犬のようなので(憋腸狗態)、臣には禁止することができません(彼等を止められません)。よって(この状況に)順じて安慰(按撫)し、状況が変わったらまた報告します(原文「増異復上」。状況が増したり異なったらまた報告するという意味です。『資治通鑑』胡三省注によると、「増異復上」というのは当時の上奏文の結末に使われた常語です)。」
朝廷は董卓を制御できませんでした。
董卓が再び上書しました「臣は誤って天恩を蒙り、軍を統率して十年になるので(掌戎十年)、士卒の大小が慣れ親しんで久しくなり(相狎彌久)、臣の畜養(養育)の恩を恋して、臣のために一旦(一朝)の命を奮っています(臣のために命をかけて尽力しています)。これを率いて北州に向かい、辺垂で效力(尽力)することを乞います。」
皇甫嵩の従子(甥)・皇甫酈(『資治通鑑』胡三省によると、「皇甫邐」と書くこともあります)が皇甫嵩に言いました「天下の兵柄(兵権)は大人(皇甫嵩)と董卓だけにありますが、今、怨隙(怨恨・対立)が既に結ばれており、共存できない形勢です(勢不俱存)。董卓は詔を受けて兵を(皇甫嵩に)委ねるように命じられたのに(または「兵を放棄するように命じられたのに」。原文「被詔委兵」)、上書して(兵を率いることを)自ら請いました。これは命に逆らうことです(此逆命也)。彼は京師の政乱を度して(量って)いるので、敢えて停滞して前に進まないのです(敢躊躇不進)。これは姦を抱くことです(此懐姦也)。この二者(逆命と懐姦)は刑が免除されるべきではありません(刑所不赦)。しかもその凶戾無親(凶暴かつ無情)には、将士が附いていません。大人が今、元帥として(王国討伐の際、董卓は皇甫嵩の監督下に入りました)、国威を持ってこれを討てば(杖国威以討之)、上は忠義を明らかにし、下は凶害を除くことになるので、成功しないはずがありません(無不済也)。」
『後漢書・竇何列伝(巻六十九)』は「前将軍・董卓を招いて関中の上林苑に駐屯させた」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注が「当時、董卓は既に河東に駐留していた。もし上林に駐屯したとしたら、更に西に去ることになる」と解説しています。『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』は「秘かに董卓を呼び、兵を率いて入朝させた」と書いており、『資治通鑑』は『董卓列伝』に従って「京師に向かわせた」としています。
侍御史・鄭泰が何進を諫めて言いました「董卓は強暴残忍で仁義が薄く、欲求に限りがありません(強忍寡義志欲無厭)。もし彼に朝政を委ね(若借之朝政)、大事を授けたら、(董卓は)凶欲(邪悪な欲望)を恣にして必ず朝廷を危うくします。明公は親徳の重(外戚としての徳がある重責)をもってし、阿衡の権(皇帝を輔佐する重臣の大権)に拠り、自分の意思を持って独断し、罪がある者を誅滅・廃除できるので(秉意独断誅除有罪)、誠に董卓に頼って資援とするべきではありません。しかも事を留めたら変事が生まれます。殷鑒は遠くありません(原文「殷鑒不遠」。教訓は近くにあるという意味で、竇武の失敗を指します)。速決するべきです(宜在速決)。」
彼等は皆、宦官誅滅を唱えました。
王匡は字を公節といい、泰山の人です。財を軽んじて施しを好み、任侠によって名が知られていました。大将軍・何進の府に招かれてから、何進が符節を渡して使者にしました(進符使)。王匡は徐州で強弩五百を徴発して(再び)西の京師に向かいます(『三国志集解』は「徐州」は「兗州」の誤りで、「王匡は兗州泰山郡で強弩を集めた」と解説しています)。
しかし王匡が戻った時ちょうど何進が敗れたため(後述します)、王匡は郷里に還りました。後に家から起って(起家)河内太守に任命されました。『後漢書・孝献帝紀』の注に「為袁紹河内太守」とあるので、袁紹によって河内太守に任命されたのかもしれません。
王匡は若い頃、蔡邕と親しく交際していました。
『資治通鑑』に戻ります。
董卓は何進に招かれたと聞くとすぐ道に就き、同時にこう上書しました「中常侍・張譲等は幸を盗んで寵を受け(陛下の寵愛を受けて。原文「竊倖承寵」)、海内を濁乱しています。臣が聞くに、湯を揚げて沸騰を止めるより、薪を除いた方がいいといいます(原文「揚湯止沸莫若去薪」。「揚湯止沸」は沸騰した湯を汲んで冷ましてからまた鍋や釜に戻すことです。一時しのぎの方法で湯を冷ますより、薪を除いて火を消した方がいいという意味です)。できものを潰すのは痛いことですが、内部を侵食されるよりもましです(潰癰雖痛勝於内食)。昔、趙鞅は晋陽の甲(兵)を興して君側の悪(国君の近くにいる奸臣)を逐いました(春秋時代、晋の趙鞅が荀寅と士吉射を駆逐しました)。今、臣も鐘鼓を鳴らして雒陽に入ります。張譲等を逮捕して姦穢(姦汚。姦邪)を清めることを請います(請收譲等以清姦穢)。」
何太后はやはり従いませんでした。
何苗が何進に言いました「(我々は)始め南陽から来た時、皆、貧賎の身でしたが、省内(宮内。ここでは宦官を指します)に頼って富貴をもたらしました。国家の大事もまた容易ではありません(国家之事亦何容易)。こぼれた水を収めることはできないので、深く考慮するべきです(覆水不收宜深思之)。とりあえず、省内と和しましょう(且與省内和也)。」
董卓が澠池に到りました。
ところが董卓は詔を受け入れず、前進を続けて河南に到りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、この「河南」は周の王城を指します。雒陽から遠くありません。
种卲は董卓を迎え入れて労い、その機会に軍を還すように諭し命じました。
董卓は変事が起きたと疑い、軍士に命じて武器で种卲を威嚇させます。すると怒った种卲は詔と称して軍士達を叱咤しました。軍士は全て四散します。
『資治通鑑』胡三省注によると、夕陽亭は河南城西にあります。
袁紹は何進が計を変えるのではないかと懼れ、脅してこう言いました「交構(恐らく「対立」の意味です)が既に成り、形勢が既に露わになっているのに、将軍はまた何を待とうと欲して早く決しないのですか(復欲何待而不早決之乎)。事が久しくなったら変が生まれ、再び竇氏のようになってしまいます(復為竇氏矣)。」
次回に続きます。