東漢時代315 霊帝(五十) 何進の失敗 189年(5)
張譲の子婦(息子の妻。恐らく養子の妻です)が何太后の妹だったため、張譲が子婦に叩頭してこう言いました「老臣は罪を得たので、新婦(息子の妻)と共に私門(故郷の家)に帰るべきですが、代々恩を受けてきたことを思うと(唯受恩累世)、今、宮殿から遠く離れることになり、心中で恋恋とした情を抱いています(情懐恋恋)。再び一度入直(宮内に宿直すること)して、暫く太后陛下の顔色を奉望できることを願います(太后の姿を見て仕えることを願います)。その後、退いて溝壑に就くのなら(「溝壑」は山谷ですが、困窮の境地、または野垂れ死を意味します)、死んでも恨みがありません。」
中常侍・張譲と段珪が互いに言いました「大将軍は疾(病)と称して(霊帝の)喪にも臨まず、送葬もしなかったのに、今、突然入省(入宮)した。これは何を意図しているのだろう(此意何為)。まさか竇氏の事がまた起きるのではないか。」
そこで自分の党羽の者数十人を指揮し、武器を持って秘かに側闥(側門)から入り、省戸(禁門)の下に伏せました。
すると張譲等が何進を詰問しました「天下が憒憒(混乱の様子)としているのは、我々だけの罪ではない(亦非独我曹罪也)。先帝がかつて太后に対して不快になり、危うく成敗(失敗。皇后廃位)を招くところだったが(幾至成敗)、我曹(我々)が涕泣して救解(援助)し(霊帝光和四年・181年参照)、それぞれ家財千万を出して礼(礼品)とし、上(陛下)の意を和悦させた。これはただ卿の門戸に託したいと欲したからだ。今、我曹(我々)の種族を滅ぼそうと欲しているが、あまりにも甚だしいことではないか(不亦大甚乎)。」
尚方監・渠穆(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では、尚方に令と丞がいましたが、監はいません。しかし桓帝と霊帝の時代は諸署令を宦者が担当しており、尚方監もその時に置かれたようです。渠氏は『春秋左氏伝』に渠伯糾、渠孔の名があります)が剣を抜いて嘉徳殿前で何進を斬りました。
中黄門が武器を持って閤(門)を守ります。
ちょうど日が暮れたため、袁術は南宮の青瑣門(『後漢書・竇何列伝(巻六十九)』では「九龍門」ですが、『資治通鑑』は袁宏の『後漢記』に従って「青瑣門」としています。胡三省注参照)を焼き、宮中を脅して張譲等を外に出させようとしました。
呉匡等は以前から何苗が何進と同心ではないことを怨んでおり、また、何苗が宦官と通謀しているのではないかと疑っていたため、軍中にこう命じました「大将軍を殺したのは車騎(車騎将軍・何苗)だ。吏士は(大将軍のために)讎(仇)に報いられるか?」
軍士は皆、涙を流して「命をかけることを願います(願致死)!」と答えました。
夜、張譲等が小平津に至りました。
皇帝の六璽を身に着けておらず、公卿で従う者も得られず、ただ尚書・盧植と河南中部掾(『資治通鑑』胡三省注によると、諸郡は中央と東西南北に五部督郵を置いて属県を監督させましたが、河南尹は東西南北に四部督郵を置き、中部は掾が監督しました。これが「河南中部掾」です)・閔貢だけが夜の間に河上に到着します。
閔貢は剣を手にして数人を斬ります。
閔貢は少帝と陳留王を抱えて、夜の間、螢の光を追って南に進み、皇宮に還ろうとしました。
数里進んだ所で民家の露車(屋根がない荷物を運ぶ車)を得ました。
公卿が少しずつ集まります。
未明に城西に到着して、少帝が北に居ると聞くと、公卿と共に北に向かって北芒阪の下で出迎えました。
少帝は董卓が兵を率いて突然現れたのを見て、恐怖のため涙を流しました。
そこで改めて陳留王と話しをして禍乱の起因や経緯を問うと、陳留王の答えは始めから最後まで遺漏がありませんでした。
皇帝の六璽のうち、伝国の璽を失いましたが、他の璽は全て見つかりました。
次回に続きます。