東漢時代315 霊帝(五十) 何進の失敗 189年(5)

今回も東漢霊帝中平六年の続きです。
 
[十五(続き)] 何進が謀をして日が重なったため、少なからず情報が漏洩しました。中官は懼れて事態の変化を求めるようになります(懼而思変)
張譲の子婦(息子の妻。恐らく養子の妻です)が何太后の妹だったため、張譲が子婦に叩頭してこう言いました「老臣は罪を得たので、新婦(息子の妻)と共に私門(故郷の家)に帰るべきですが、代々恩を受けてきたことを思うと(唯受恩累世)、今、宮殿から遠く離れることになり、心中で恋恋とした情を抱いています(情懐恋恋)。再び一度入直(宮内に宿直すること)して、暫く太后陛下の顔色を奉望できることを願います太后の姿を見て仕えることを願います)。その後、退いて溝壑に就くのなら(「溝壑」は山谷ですが、困窮の境地、または野垂れ死を意味します)、死んでも恨みがありません。」
子婦はこれを母の舞陽君(何太后の母でもあります)に話しました。舞陽君は何太后に報告します。
そこで(何太后が)詔を発して全ての諸常侍を再び入直させました。
 
八月戊辰(二十五日)何進が長楽宮に入り、何太后と話しをして諸常侍を全て誅殺することを請いました。
 
中常侍張譲段珪が互いに言いました「大将軍は疾(病)と称して霊帝の)喪にも臨まず、送葬もしなかったのに、今、突然入省(入宮)した。これは何を意図しているのだろう(此意何為)。まさか竇氏の事がまた起きるのではないか。」
張譲等は人を送って会話を盗み聴きさせ、何進の言葉を全て知りました。
そこで自分の党羽の者数十人を指揮し、武器を持って秘かに側闥(側門)から入り、省戸(禁門)の下に伏せました。
何進が出てくると、張譲等が何太后の詔と偽って何進を招きました。
何進(再び)入って省閤(宮門の建物)に坐ります。
すると張譲等が何進を詰問しました「天下が憒憒(混乱の様子)としているのは、我々だけの罪ではない(亦非独我曹罪也)。先帝がかつて太后に対して不快になり、危うく成敗(失敗。皇后廃位)を招くところだったが(幾至成敗)、我曹(我々)が涕泣して救解(援助)霊帝光和四年181年参照)、それぞれ家財千万を出して礼(礼品)とし、上(陛下)の意を和悦させた。これはただ卿の門戸に託したいと欲したからだ。今、我曹(我々)の種族を滅ぼそうと欲しているが、あまりにも甚だしいことではないか(不亦大甚乎)。」
尚方監渠穆(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では、尚方に令と丞がいましたが、監はいません。しかし桓帝霊帝の時代は諸署令を宦者が担当しており、尚方監もその時に置かれたようです。渠氏は『春秋左氏伝』に渠伯糾、渠孔の名があります)が剣を抜いて嘉徳殿前で何進を斬りました。
 
張譲段珪等は詔を作って旧太尉樊陵を司隸校尉に、少府許相を河南尹に任命しようとしました。
しかし詔版詔書を得た尚書は疑ってこう言いました「大将軍が出て来て共に議すことを請う。」
すると中黄門は何進の頭を投げて尚書に与え、「何進は謀反したので既に誅に伏した」と言いました。
 
この時、何進の部曲(部隊)の将呉匡と張璋が宮門の外にいました。何進が害されたと聞いたため、兵を率いて入宮しようとしましたが、宮門が閉ざされています。
そこで虎賁中郎将袁術が呉匡と共に斫攻(攻撃)しました。
中黄門が武器を持って閤(門)を守ります。
ちょうど日が暮れたため、袁術は南宮の青瑣門(『後漢書竇何列伝(巻六十九)』では「九龍門」ですが、『資治通鑑』は袁宏の『後漢記』に従って「青瑣門」としています。胡三省注参照)を焼き、宮中を脅して張譲等を外に出させようとしました。
 
張譲等は後宮に入って何太后に報告し、こう言いました「大将軍の兵が反し、宮を焼き、尚書尚書門)を攻めています。」
張譲等はこの機に何太后、少帝および陳留王劉協を強制して連れ出し、省内の官属を脅して複道(二階建ての通路)から北宮に走りました。
 
尚書盧植が閤道(閣道。複道)の窗(窓)の下で戈を持っており、段珪を仰ぎ見て叱責しました。
懼れた段珪は何太后を放ちます。何太后は閤から投じて(閣道の上から跳び下りて)逃れることができました。
 
袁紹と叔父の袁隗が詔を偽って(矯詔)樊陵と許相を招き、斬りました。
更に袁紹何苗と共に兵を率いて朱雀闕(門)下に駐屯し、趙忠等を得て斬りました。
 
呉匡等は以前から何苗何進と同心ではないことを怨んでおり、また、何苗が宦官と通謀しているのではないかと疑っていたため、軍中にこう命じました「大将軍を殺したのは車騎(車騎将軍何苗だ。吏士は(大将軍のために)(仇)に報いられるか?」
軍士は皆、涙を流して「命をかけることを願います(願致死)!」と答えました。
そこで呉匡が兵を率いて董卓の弟奉車都尉董旻と共に何苗を攻めて殺し、死体を苑中に棄てました。
 
袁紹が北宮の門を閉じ、兵を指揮して諸宦者を捕え、老若に関わらず全て殺しました。その数は二千余人に上り、須(鬚)がないために誤って殺された者もいました(宦官には髭が生えません)
 
袁紹は勝ちに乗じて兵を進め、宮中を掃討しました(進兵排宮)。端門(『資治通鑑』胡三省注によると、宮殿の正南の門を端門といいます)の屋根に登って省内(宮内)を攻める者もいました。
 
庚午(二十七日)、困窮した張譲段珪等が少帝と陳留王等数十人を連れて、歩いて榖門を出ました(『資治通鑑』胡三省注によると、榖門は雒陽城正北の門です)
 
夜、張譲等が小平津に至りました。
皇帝の六璽を身に着けておらず、公卿で従う者も得られず、ただ尚書盧植と河南中部掾(『資治通鑑』胡三省注によると、諸郡は中央と東西南北に五部督郵を置いて属県を監督させましたが、河南尹は東西南北に四部督郵を置き、中部は掾が監督しました。これが「河南中部掾」です)閔貢だけが夜の間に河上に到着します。
 
閔貢が厲声(厳しい声、口調)張譲等を質責(叱責)し、更にこう言いました「今、速やかに死ななかったら、わしが汝を殺そう(今不速死,吾将殺汝)。」
閔貢は剣を手にして数人を斬ります。
恐れた張譲等は叉手(両手を胸の前で重ねる礼)再拝し、少帝に向かって叩頭してから別れを告げて「臣等は死します。陛下は自愛してください(臣等死,陛下自愛)」と言い、河に身を投げて死にました。
 
閔貢は少帝と陳留王を抱えて、夜の間、螢の光を追って南に進み、皇宮に還ろうとしました。
数里進んだ所で民家の露車(屋根がない荷物を運ぶ車)を得ました。
閔貢等は共にこの車に乗って雒舍(『資治通鑑』胡三省注によると、北芒の北に位置する地名です)まで進み、休憩しました。
 
辛未(二十八日)、少帝が一人で一馬に乗り、陳留王と閔貢が共に一馬に乗り、雒舍からまた南行しました。
公卿が少しずつ集まります。
 
これより以前、董卓が顕陽苑(『資治通鑑』胡三省注によると、桓帝が雒陽西に建てました)に至った時、遠くで火が起きるのを見たため、変事が起きたと知り、兵を率いて急いで京師に進みました。
未明に城西に到着して、少帝が北に居ると聞くと、公卿と共に北に向かって北芒阪の下で出迎えました。
 
少帝は董卓が兵を率いて突然現れたのを見て、恐怖のため涙を流しました。
群公が董卓に言いました「詔がある。兵を退け(有詔卻兵)。」
董卓が言いました「公のような諸人は国の大臣になりながら、王室を匡正(矯正)できず、国家(皇帝)を播蕩(流浪)させるに至った。なぜ兵を退く必要があるのだ(何卻兵之有)。」
 
董卓が少帝と話しをしましたが、少帝はまともに会話ができませんでした(語不可了)
そこで改めて陳留王と話しをして禍乱の起因や経緯を問うと、陳留王の答えは始めから最後まで遺漏がありませんでした。
董卓は大いに喜んで陳留王を賢人とみなしました。しかも陳留王は董太后に養われており、董卓は自分が董太后の同族だと考えていたため、廃立の意を抱くようになりました。
 
この日、少帝が皇宮に還り、天下に大赦して光熹元年を昭寧元年に改元しました。
 
皇帝の六璽のうち、伝国の璽を失いましたが、他の璽は全て見つかりました。
 
 
 
次回に続きます。