東漢時代316 霊帝(五十一) 献帝即位 189年(6)
丁原を執金吾に任命しました。
ちょうどこの頃、泰山で兵を募っていた騎都尉・鮑信が戻り、袁紹にこう言いました「董卓は強兵を擁しているので、やがて異志を抱きます。今、早く図らなかったら、必ず制されることになります。到着したばかりで疲労している隙にこれを襲えば、捕えることができます(及其新至疲労襲之,可禽也)。」
鮑信は兵を率いて泰山に還りました。
そこで約四五日おきに夜に乗じて秘かに軍(部隊)を営の近くに出し、明旦(翌朝)、大いに旌鼓(旗と戦鼓)を並べて戻らせ、西兵がまた到着したように見せました。
雒陽城内で実情を知る者はいません。
董卓の兵はここから盛んになります。
しかし王甫の弟に当たる五原太守・王智が「蔡邕が朝廷を誹謗している」と上奏したため、蔡邕は江海に亡命しました。前後して本年で十二年になります。
董卓が蔡邕の名声を聞いて招聘しましたが、蔡邕は病と称して官に就きませんでした。
蔡邕は懼れて命に従い、京師に入ってから祭酒の官に置かれました(原文「署祭酒」。「署」は配置、または代理の意味です。この「祭酒」は恐らく「司空祭酒」です)。
蔡邕ははなはだ敬重され、高第(成績優秀な者)に挙げられ、三日の間で三台を周歴(経歴)してから(『資治通鑑』胡三省注によると、蔡邕は高第として推挙され、まず侍御史を補い、治書御史に転じ、尚書に遷されました)侍中に遷されました。
董卓が袁紹に言いました「天下の主は賢明を得るべきだ。いつも霊帝を念じる(思う)たびに、人を憤毒(憤懣)させる。董侯(劉協)は良さそうだ(董侯似可)。今これを立てようと欲するが、史侯(少帝)に勝ることができるだろうか(為能勝史侯否)?人には若い頃は賢くても大きくなったら愚かになる者もいるが、(董侯は)どうだろうか(人有小智大癡,亦知復何如)?そのようであるなら(董侯も賢才でないのなら)、劉氏の種は残すに足りない(為当且爾劉氏種不足復遺)。」
袁紹が言いました「漢家は天下の君となって四百許年(約四百年)に及び、恩沢が深渥(深厚)で、兆民(万民)がこれを戴(奉戴。支持)しています。今、上(陛下)は春秋に富んでおり(まだ若く)、しかも不善を天下に示したことがありません。公は嫡を廃して庶と立てようと欲していますが、恐らく衆(百官、大衆)が公の議(意見)に従わないでしょう。」
董卓は剣に手を置いて袁紹を叱責し、こう言いました「豎子が何を言うのか(原文「豎子敢然」。「豎子」は相手を罵る言葉です)!天下の事でわしに決定できないことがあるか(天下之事豈不在我)!わしがこれを為そうと欲したら、誰が従わずにいられるか!汝は董卓の刀が鋭利ではないと言うのか!」
袁紹も勃然(憤激、興奮すること)として「天下の健者(英雄豪傑)は董公(董卓)だけではない(天下健者豈惟董公)!」と言うと、佩刀を持ち、横を向いて揖礼をしてそのまま出て行きました(原文「引佩刀横揖徑出」。誤訳かもしれません)。
九月癸酉(中華書局『白話資治通鑑』は「癸酉」を恐らく誤りとしています)、董卓が百僚を招集して会を開き、奮首(頭をあげること。気勢が激しい様子です)して言いました「皇帝は闇弱(暗愚劣弱)なので宗廟を奉じて天下の主になることができない。今、伊尹・霍光の故事(前例)に基き、改めて陳留王を立てようと欲するが如何だ?」
公卿以下、百官は恐れて誰も答えられません。
その場に坐している者は皆、震撼しました。
尚書・盧植だけがこう言いました「昔、太甲は即位したものの不明で、昌邑は罪過が千余に上ったので、廃立の事があったのです。今、上(陛下)は春秋に富んでおり、行いには徳を失うことがありません。前事と比べることはできません(非前事之比也)。」
後に董卓が盧植を殺そうとしましたが、蔡邕が盧植のために命乞いをし、議郎・彭伯も董卓を諫めてこう言いました「盧尚書は海内の大儒で人の望です(人望があります)。今、先にこれを害したら、天下が震怖します。」
盧植は上谷に逃げて隠居します。
果たして董卓が人を送って追跡させましたが、懐に至っても追いつけませんでした。
『資治通鑑』に戻ります。
何太后(少帝の実母)を脅迫して策書によって少帝を廃します。策書はこう宣言しました「皇帝は喪にありながら人の子としての心がなく、威儀が人君に類さない(人君らしくない)。よって、今、(皇帝を)廃して弘農王とし、陳留王・協を立てて帝にする。」
袁隗が少帝の璽綬を解き、陳留王に渡しました。弘農王を抱えて殿下に降ろし、北面して臣と称させます。
何太后は永安宮に遷されました。
『孝献帝紀』の注によると、永安宮の周囲は六百九十八丈ありました。
天下に大赦して昭寧元年を永漢元年に改めました。
公卿以下、布服(粗末な服。喪服)を着る者はなく、葬礼に参加しても素衣(白い服)を着ただけでした。
『孝献帝紀』の注によると、侍中の秩は比二千石、給事黄門侍郎の秩は六百石で、今まで定員数が決められていませんでした。
詔を発して、公卿以下、黄門侍郎に至る官員の家を対象に、子弟一人に郎の官を与え、宦官の職を補って諸署を主管させたり殿上で皇帝に侍らせました。
乙酉(十二日)、太尉・劉虞を大司馬に任命し、襄賁侯に封じました。
次回に続きます。