東漢時代316 霊帝(五十一) 献帝即位 189年(6)

今回も東漢霊帝中平六年の続きです。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
丁原を執金吾に任命しました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
ちょうどこの頃、泰山で兵を募っていた騎都尉鮑信が戻り、袁紹にこう言いました「董卓は強兵を擁しているので、やがて異志を抱きます。今、早く図らなかったら、必ず制されることになります。到着したばかりで疲労している隙にこれを襲えば、捕えることができます(及其新至疲労襲之,可禽也)。」
しかし袁紹董卓を畏れて兵を発することができませんでした。
鮑信は兵を率いて泰山に還りました。
 
[十八] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
并州牧・董卓が京師に入った時、歩騎が三千人を越えなかったため、董卓は兵が少ないことを嫌い、遠近を威服できないことを恐れました。
そこで約四五日おきに夜に乗じて秘かに軍(部隊)を営の近くに出し、明旦(翌朝)、大いに旌鼓(旗と戦鼓)を並べて戻らせ、西兵がまた到着したように見せました。
雒陽城内で実情を知る者はいません。
 
暫くして、何進と弟何苗の部曲も全て董卓に帰しました。
 
更に董卓は秘かに丁原の部曲司馬五原の人呂布を使って執金吾・丁原を殺させ、その衆を併せました。
董卓の兵はここから盛んになります。
そこで董卓は朝廷に示唆して、久雨(長雨)を理由に司空劉弘を策免させ、自分が代わって司空になりました。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
以前、蔡邕が朔方に遷されましたが霊帝光和元年178年)大赦に遇って還ることができました。
しかし王甫の弟に当たる五原太守王智が「蔡邕が朝廷を誹謗している」と上奏したため、蔡邕は江海に亡命しました。前後して本年で十二年になります。
董卓が蔡邕の名声を聞いて招聘しましたが、蔡邕は病と称して官に就きませんでした。
董卓が怒って罵りました「わしは人を族すことができる(族滅できる。原文「我能族人」)!」
蔡邕は懼れて命に従い、京師に入ってから祭酒の官に置かれました(原文「署祭酒」。「署」は配置、または代理の意味です。この「祭酒」は恐らく「司空祭酒」です)
蔡邕ははなはだ敬重され、高第(成績優秀な者)に挙げられ、三日の間で三台を周歴(経歴)してから(『資治通鑑』胡三省注によると、蔡邕は高第として推挙され、まず侍御史を補い、治書御史に転じ、尚書に遷されました)侍中に遷されました。
 
[二十] 『後漢書・孝霊帝紀』『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
董卓袁紹に言いました「天下の主は賢明を得るべきだ。いつも霊帝を念じる(思う)たびに、人を憤毒(憤懣)させる。董侯(劉協)は良さそうだ(董侯似可)。今これを立てようと欲するが、史侯(少帝)に勝ることができるだろうか(為能勝史侯否)?人には若い頃は賢くても大きくなったら愚かになる者もいるが、(董侯は)どうだろうか(人有小智大癡,亦知復何如)?そのようであるなら(董侯も賢才でないのなら)、劉氏の種は残すに足りない(為当且爾劉氏種不足復遺)。」
袁紹が言いました「漢家は天下の君となって四百許年(約四百年)に及び、恩沢が深渥(深厚)で、兆民(万民)がこれを戴(奉戴。支持)しています。今、上(陛下)は春秋に富んでおり(まだ若く)、しかも不善を天下に示したことがありません。公は嫡を廃して庶と立てようと欲していますが、恐らく衆(百官、大衆)が公の議(意見)に従わないでしょう。」
董卓は剣に手を置いて袁紹を叱責し、こう言いました「豎子が何を言うのか(原文「豎子敢然」。「豎子」は相手を罵る言葉です)!天下の事でわしに決定できないことがあるか(天下之事豈不在我)!わしがこれを為そうと欲したら、誰が従わずにいられるか!汝は董卓の刀が鋭利ではないと言うのか!」
袁紹も勃然(憤激、興奮すること)として「天下の健者(英雄豪傑)は董公(董卓)だけではない(天下健者豈惟董公)!」と言うと、佩刀を持ち、横を向いて揖礼をしてそのまま出て行きました(原文「引佩刀横揖徑出」。誤訳かもしれません)
董卓は入京したばかりで、袁紹が大家の出身だったため、敢えて害すことができませんでした。
袁紹司隸校尉の符節を上東門(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽城東面の北側に位置する門です)に掛けて冀州に逃走しました。
 
九月癸酉(中華書局『白話資治通鑑』は「癸酉」を恐らく誤りとしています)董卓が百僚を招集して会を開き、奮首(頭をあげること。気勢が激しい様子です)して言いました「皇帝は闇弱(暗愚劣弱)なので宗廟を奉じて天下の主になることができない。今、伊尹霍光の故事(前例)に基き、改めて陳留王を立てようと欲するが如何だ?」
公卿以下、百官は恐れて誰も答えられません。
董卓がまた声を上げて言いました「昔、霍光が策を定めた時、延年(田延年)が剣に手を置いた。敢えて大義を妨害しようとする者がいたら、皆、軍法によって処理する(有敢沮大議皆以軍法従事)!」
その場に坐している者は皆、震撼しました。
尚書盧植だけがこう言いました「昔、太甲は即位したものの不明で、昌邑は罪過が千余に上ったので、廃立の事があったのです。今、上(陛下)は春秋に富んでおり、行いには徳を失うことがありません。前事と比べることはできません(非前事之比也)。」
董卓は激怒して退席しました(会を中止しました。原文「罷坐」)
 
後に董卓盧植を殺そうとしましたが、蔡邕が盧植のために命乞いをし、議郎彭伯も董卓を諫めてこう言いました「盧尚書は海内の大儒で人の望です(人望があります)。今、先にこれを害したら、天下が震怖します。」
董卓盧植を殺しませんでしたが、官を免じました。
盧植は上谷に逃げて隠居します。
 
後漢書呉延史盧趙列伝(巻六十四)』によると、罷免された盧植は老病を理由に故郷に帰ることを求めました盧植は涿郡涿の人です)。但し、禍から逃れられないことを懼れ、道を偽って轘轅(道)から出ます。
果たして董卓が人を送って追跡させましたが、懐に至っても追いつけませんでした。
盧植は上谷に隠れて人事(人の世)との交わりを絶ちました。
後に冀州袁紹に請われて軍師になり、献帝初平三年192年)に死にました。
 
資治通鑑』に戻ります。
董卓は廃立の議(建議、意見)を太傅袁隗に示しました。袁隗は議に従うと報告します。
 
甲戌(九月初一日)董卓が再び群僚を崇徳前殿に集めて会を開きました。
太后(少帝の実母)を脅迫して策書によって少帝を廃します。策書はこう宣言しました「皇帝は喪にありながら人の子としての心がなく、威儀が人君に類さない(人君らしくない)。よって、今、(皇帝を)廃して弘農王とし、陳留王協を立てて帝にする。」
袁隗が少帝の璽綬を解き、陳留王に渡しました。弘農王を抱えて殿下に降ろし、北面して臣と称させます。
太后は声を押し殺して無き(鯁涕)、群臣も悲哀を抱きましたが、敢えて発言する者はいませんでした。
 
こうして陳留王劉協が即位しました。この時、九歳で、献帝といいます。漢朝最後の皇帝になります。
 
董卓がまた意見を述べました「太后は永楽宮(董太后を踧迫(逼迫)して憂死させるに至った。婦姑(妻と姑)の礼に逆らっている。」
太后は永安宮に遷されました。
孝献帝紀』の注によると、永安宮の周囲は六百九十八丈ありました。
 
天下に大赦して昭寧元年を永漢元年に改めました。
 
丙子(初三日)董卓が酖(毒)で皇太后何氏を殺しました。
公卿以下、布服(粗末な服。喪服)を着る者はなく、葬礼に参加しても素衣(白い服)を着ただけでした。
 
董卓は更に何苗の棺を掘り起こし、その死体を出して支解節断(四肢をバラバラにすること)してから道端に棄てました。
何苗の母舞陽君も殺されて死体は苑(花苑)の枳落(棘がある垣根)の中に棄てられました。
 
[二十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
令を発して献帝はわずか九歳なので、董卓の指示です)初めて侍中と給事黄門侍郎の定員を各六人にしました。
孝献帝紀』の注によると、侍中の秩は比二千石、給事黄門侍郎の秩は六百石で、今まで定員数が決められていませんでした。
 
[二十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
詔を発して、公卿以下、黄門侍郎に至る官員の家を対象に、子弟一人に郎の官を与え、宦官の職を補って諸署を主管させたり殿上で皇帝に侍らせました。
 
霊帝熹平四年175年)に平準を中準に改めて宦者を令に任命してから、内署の令丞は全て閹人(宦官)が担当するようになっていました。今回、宦官がいなくなったため、士人に主管させることにしました。
 
[二十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
乙酉(十二日)、太尉劉虞を大司馬に任命し、襄賁侯に封じました。
 
董卓が自ら太尉になり、前将軍の職務を兼任しました(領前将軍事)。節伝(恐らく符節だと思います)鈇鉞斧鉞)、虎賁を加えます。また、改めて郿侯に封じました(これ以前は斄郷侯です)
 
[二十四] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
丙戌(十三日)、太中大夫楊彪を司空にしました。
甲午(二十一日)豫州黄琬を司徒にしました。
 
 
 
次回に続きます。