東漢時代317 霊帝(五十二) 相国董卓 189年(7)

今回も東漢霊帝中平六年の続きです。
 
[二十五] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
董卓が諸公を率いて上書し、遡って故太傅・陳蕃、大将軍・竇武および諸党人について審理するように求めました。
全ての爵位を恢復し、使者を送って祠(祠廟)を弔い、子孫を抜擢して官職を与えました。
 
[二十六] 『後漢書・孝霊帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月からこの月(九月)まで雨が降り続きました。
 
[二十七] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月乙巳(初三日)、霊思皇后(何太后を埋葬しました。
 
[二十八] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
白波賊が河東を侵しました。
孝献帝紀』の注によると、黄巾の郭泰(または「郭太」「郭大」。前年参照)等が西河白波谷で挙兵し、時の人はこれを「白波賊」と呼びました。
 
董卓が自分の将牛輔を派遣してこれを撃ちました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
以前、南単于於扶羅が即位してから(前年、単于・羌渠が殺されて子の於扶羅が立ちました。これを持至尸逐侯単于といいます)、その父羌渠を殺した国人が背叛し、共に須卜骨都侯を単于に立てました。
於扶羅は漢の宮闕を訪ねて自ら訴えましたが、(本年)ちょうど霊帝が死に、天下が大乱に陥ったため、数千騎を率いて白波賊と兵を合わせ、郡県を侵しました(『後漢書・孝霊帝紀』は前年に「単于が叛し、白波賊と共に河東を侵した」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注は『孝霊帝紀』の誤りとしています)
しかし当時は民が皆集まって守りを固めていたため(保聚)、鈔掠(略奪)しても利がなく、逆に兵に損害が出ました。
於扶羅は帰国しようと欲しましたが、国人が受け入れないため、河東平陽で停留しました。
 
須卜骨都侯は単于になって一年で死にました。
南庭南匈奴の朝廷)単于空位になったため、老王が国事を行いました。
「老王」は年配の匈奴諸王だと思います。あるいは、「老」は「父」を表し、須卜骨都侯の父を指すのかもしれません。
 
[二十九] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、董卓を相国にしました。
「賛拝不名(皇帝への謁見や入朝の際、姓名をよばれない)」「入朝不趨(入朝の際、小走りになる必要がない)」「剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま上殿できる)」の特権が与えられます。
資治通鑑』胡三省注は、「漢は蕭何が相国になって以来、(相国に)任命された者がいなかった」と書いています。
 
[三十] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月戊戌(中華書局『白話資治通鑑』は「戊戌」を恐らく誤りとしています)、司徒黄琬を太尉に、司空楊彪を司徒に、光禄勳荀爽を司空にしました。
 
以前、尚書武威の人周毖と城門校尉汝南の人伍瓊が董卓を説得し、桓帝霊帝の政治を正して天下の名士を抜擢採用することで衆望を収めるように勧めました。
董卓はこれに従いました。
 
周毖と伍瓊は、『後漢書董卓列伝(巻七十二)』では「吏部尚書漢陽の人周珌(周毖)と侍中汝南の人伍瓊」、『欽定四庫全書後漢(袁宏)』では「侍中周毖と城門校尉伍瓊」と書かれています。
三国志魏書六董二袁劉伝』に「尚書周毖と城門校尉伍瓊」とあり、裴松之注で「周毖は字を仲遠といい、武威の人。伍瓊は字を徳瑜といい、汝南の人」と解説されています。『資治通鑑』は『三国志』に従っています(胡三省注参照)
孝献帝紀』の注によると、周珌(周毖)豫州刺史周慎の子です献帝初平元年・190年に再述します)
 
董卓は周毖、伍瓊に命じ、尚書鄭泰、長史何顒等と共に姦汚を淘汰して仕官の道を塞がれている人材を抜擢させました(沙汰穢悪顕抜幽滞)
こうして処士荀爽、陳紀、韓融、申屠蟠が招聘されます。
 
荀爽は所在地で平原相に任命され、宛陵(『資治通鑑』胡三省注によると、宛陵は河南尹に属す県で、雒陽の東に位置します)に至った時、光禄勳に遷され、三日間政務を行っただけで(視事三日)、司空を拝命しました。
徵命(招聘の命)を被ってから台司(三公)に登るまでの時間はわずか九十三日でした。
 
陳紀は五官中郎将に、韓融は大鴻臚になりました。
陳紀は陳寔の子、韓融は韓韶の子です(どちらも桓帝永寿二年156年参照)
 
荀爽等は皆、董卓の暴虐を畏れたため、招聘に応じない者がいませんでしたが、申屠蟠だけは徵書を得て人から応じるように勧められても笑って答えず、董卓もついに屈服させることができませんでした。七十余歳で天寿を全うします。
 
董卓はまた尚書韓馥を冀州牧に、侍中劉岱を兗州刺史に、陳留の人孔伷(『資治通鑑』胡三省注によると「孔冑」とも書きます)豫州刺史に、東平の人張邈を陳留太守に、潁川の人張咨を南陽太守に任命しました。
董卓が親愛する者は顕職(高位)に就かず、将校になっただけでした。
資治通鑑』胡三省注によると、「将校」は中郎将と校尉を指します。
 
三国志魏書一武帝紀』裴松之注によると、韓馥は字を文節といい、潁川の人です。御史中丞になり、董卓の推挙によって冀州牧になりました。
 
劉岱は劉繇の兄です。劉繇は揚州刺史になりますが、後に孫策に敗れます。
西漢時代、斉孝王劉将閭(高帝の孫。斉悼恵王劉肥の子)の少子が牟平侯に封じられました。劉岱、劉繇兄弟はその子孫なので、漢の皇族に当たります。『三国志呉書』に劉繇の伝があります。
 
孔伷は字を公緒といい、陳留の人です。後に鄭泰が孔伷を評価して董卓に「孔公緒は清談高論して嘘枯吹生する者です(「嘘枯吹生」は枯れたものに息を吹いて生き返らせ、生きているものに息をかけて枯れさせることで、生死を逆転させるほど弁舌が優れているという意味です)」と語ります(『資治通鑑』は献帝初平元年190年に書いています)
 
[三十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
扶風都尉を廃して漢安都護を置きました。
孝献帝紀』の注によると、扶風都尉の秩は比二千石で、西漢武帝が置きました。この頃は羌が三輔を侵していたため、都尉を廃して都護を置き、西方を総統(統率)させました。
 
[三十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
詔を発して光熹、昭寧、永漢の三号を除き、中平六年に戻しました。
 
 
 
次回に続きます。