東漢時代317 霊帝(五十二) 相国董卓 189年(7)
六月からこの月(九月)まで雨が降り続きました。
白波賊が河東を侵しました。
以下、『資治通鑑』からです。
於扶羅は漢の宮闕を訪ねて自ら訴えましたが、(本年)ちょうど霊帝が死に、天下が大乱に陥ったため、数千騎を率いて白波賊と兵を合わせ、郡県を侵しました(『後漢書・孝霊帝紀』は前年に「南単于が叛し、白波賊と共に河東を侵した」と書いていますが、『資治通鑑』胡三省注は『孝霊帝紀』の誤りとしています)。
しかし当時は民が皆集まって守りを固めていたため(保聚)、鈔掠(略奪)しても利がなく、逆に兵に損害が出ました。
於扶羅は帰国しようと欲しましたが、国人が受け入れないため、河東平陽で停留しました。
須卜骨都侯は単于になって一年で死にました。
「老王」は年配の匈奴諸王だと思います。あるいは、「老」は「父」を表し、須卜骨都侯の父を指すのかもしれません。
十一月、董卓を相国にしました。
「賛拝不名(皇帝への謁見や入朝の際、姓名をよばれない)」「入朝不趨(入朝の際、小走りになる必要がない)」「剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま上殿できる)」の特権が与えられます。
董卓はこれに従いました。
『三国志・魏書六・董二袁劉伝』に「尚書・周毖と城門校尉・伍瓊」とあり、裴松之注で「周毖は字を仲遠といい、武威の人。伍瓊は字を徳瑜といい、汝南の人」と解説されています。『資治通鑑』は『三国志』に従っています(胡三省注参照)。
こうして処士・荀爽、陳紀、韓融、申屠蟠が招聘されます。
荀爽は所在地で平原相に任命され、宛陵(『資治通鑑』胡三省注によると、宛陵は河南尹に属す県で、雒陽の東に位置します)に至った時、光禄勳に遷され、三日間政務を行っただけで(視事三日)、司空を拝命しました。
徵命(招聘の命)を被ってから台司(三公)に登るまでの時間はわずか九十三日でした。
陳紀は五官中郎将に、韓融は大鴻臚になりました。
荀爽等は皆、董卓の暴虐を畏れたため、招聘に応じない者がいませんでしたが、申屠蟠だけは徵書を得て人から応じるように勧められても笑って答えず、董卓もついに屈服させることができませんでした。七十余歳で天寿を全うします。
董卓はまた尚書・韓馥を冀州牧に、侍中・劉岱を兗州刺史に、陳留の人・孔伷(『資治通鑑』胡三省注によると「孔冑」とも書きます)を豫州刺史に、東平の人・張邈を陳留太守に、潁川の人・張咨を南陽太守に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「将校」は中郎将と校尉を指します。
孔伷は字を公緒といい、陳留の人です。後に鄭泰が孔伷を評価して董卓に「孔公緒は清談高論して嘘枯吹生する者です(「嘘枯吹生」は枯れたものに息を吹いて生き返らせ、生きているものに息をかけて枯れさせることで、生死を逆転させるほど弁舌が優れているという意味です)」と語ります(『資治通鑑』は献帝初平元年・190年に書いています)。
扶風都尉を廃して漢安都護を置きました。
詔を発して光熹、昭寧、永漢の三号を除き、中平六年に戻しました。
次回に続きます。