東漢時代318 霊帝(五十三) 曹操出奔 189年(8)

今回で東漢霊帝中平六年が終わります。
 
[三十三] 『資治通鑑』からです。
董卓は性格が残忍で、一度権力を掌握して専政を開始すると、国家の甲兵・珍宝を占有し、威が天下を震わせました。
しかも董卓の願望には限りがなく、賓客にこう言いました「わしの相(人相)はこれ以上ない尊貴なものだ(我相貴無上也)。」
資治通鑑』胡三省注は「董卓は)自ら人臣の相ではないと言っている。その悖逆(道理に反すること。叛心)はこのようであった」と書いています。
 
侍御史擾龍宗(擾龍が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、古の擾龍氏の後代です)董卓を訪ねてある事を報告した時、剣を解きませんでした。董卓は即座に檛殺棍棒や鞭で殴打して殺すこと)しました。
 
当時は雒中の貴戚が室第(邸宅)を並べており、各家が金帛財産を充積していました。
董卓は兵士を放ってそれらの廬舍(家。部屋)に突入させ、資産・財宝を略奪し、婦女を奪い(剽虜資物,妻略婦女)、貴戚を避けませんでした。
そのため人心が恐れて崩壊し、日々の生活が保障できないほど不安定になりました(人情崩恐,不保朝夕)
 
董卓が賞金を懸けて袁紹を求め、追跡を厳しくしました(購求袁紹急)
周毖と伍瓊が董卓に言いました「廃立の大事は、常人が及ぶところではありません(凡人が理解できることではありません)袁紹は大体(大局)に達することなく、恐懼して出奔しました。他の志があるのではありません。今、急いで懸賞によって彼を求めたら、必ず変事を招く形勢になります(今急購之勢必為変)。袁氏は四世にわたって恩徳を立ててきたので(原文「樹恩四世」。袁安から四世で袁紹になります)、門生故吏(旧部下)が天下に遍いています。もし袁紹が)豪桀(豪傑)を収める(懐柔する)ことによって徒衆を集めたら、英雄(各地の豪傑)がこれを機に起ちあがり、そうなったら山東が公の所有するものではなくなってしまいます。彼を赦して一郡守に拝すべきです。袁紹は免罪されたことに喜び、必ず患がなくなるでしょう。」
董卓はこれに納得し、すぐに袁紹勃海太守に任命して郷侯に封じました。
また、袁術を後将軍に、曹操を驍騎校尉に任命しました。
 
ところが袁術董卓を畏れて南陽に出奔し、曹操も姓名を変えて間道から東に帰りました。
 
曹操が中牟(『資治通鑑』胡三省注によると、中牟は河南尹に属す県です)を通った時、亭長に疑われ、捕えられて県に送られました。この時、県は既に董卓の書曹操の逮捕状)を受け取っていました。しかし功曹だけが心中で曹操だと知り(心知是操)、真に世が乱れている時なので、天下の雄雋(雄俊)を拘留するべきではないと考え、県令を説いて釈放させました。
曹操は陳留に帰ると家財を散じて兵を集め、五千人を得ました。
 
曹操の出奔に関しては『三国志魏書一武帝紀』に詳しく書かれているので、以下、引用します(少し遡ります)
霊帝が死んで太子が即位し、何太后が朝政に臨んでから、大将軍何進袁紹が宦官誅滅を謀りましたが、何太后は同意しませんでした。そこで何進董卓を召して何太后を脅そうとしました。
しかし董卓が到着する前に何進は殺されました。
董卓は京師に入ると帝を廃して弘農王に改め、献帝を立てました。京都が大混乱に陥ります。
 
董卓は上表して曹操を驍騎校尉に任命し、共に事を計ろうとしました。
しかし曹操は姓名を変えて間道から東に帰りました。
関を出て中牟を通った時、亭長に疑われ、捕まって県に送られましたが、邑中に秘かに曹操を知っている者がおり、命乞いしたため、曹操は釈放されました。
董卓がついに何太后と弘農王を殺しました(実際は、何太后はこれ以前に殺されており、弘農王は翌年に殺されます)
曹操は陳留に至ってから家財を投じて義兵を糾合し、董卓誅滅の準備をしました。
冬十二月、己吾(地名)で始めて兵を起こしました。この年は中平六年です。
武帝紀』裴松之注によると、陳留の孝廉衛茲が家財を使って曹操を支援し、挙兵させました。曹操は五千人の衆を擁します。
 
武帝紀』裴松之注が逃走中の曹操について書いています。
曹操董卓が最後は必ず覆敗(失敗)すると判断し、任命を受けず郷里に逃げ帰りました。数騎を従えて故人(旧知)である成皋の人呂伯奢を訪ねます。しかし呂伯奢は不在で、その子と賓客が共に曹操を脅迫して馬や物を奪おうとしました。曹操は刃(武器)を手にして数人を撃殺しました。
 
この事件は他に二つの説があり、裴松之は併せて記載しています。
曹操が呂伯奢の家を訪ねた時、呂伯奢は外出していましたが、五子がそろっていて、賓主の礼を備えました(賓客と主人の礼を用いて応対しました)
しかし曹操董卓の命に背いていたため、彼等が自分を図ろうとしているのではないか(害そうとしているのではないか)と疑い、剣を手にして夜の間に八人を殺し、立ち去りました。
これが二つ目の説です。
 
三つ目はこうです。
曹操は呂伯奢の家で食器の音を聞き、彼等が自分を図ろうとしていると思いました。そこで、夜の間に(呂伯奢の家人を)殺してしまいました。
曹操は後に悽愴(悲傷の様子)として「私が人に背いたとしても、人が私に背いてはならない(私が人に対して悪を行ったとしても、人が私に対して悪を行うことは許されない。原文「寧我負人,毋人負我」)」と言い、立ち去りました。
 
[三十四] 『三国志魏書一武帝紀』裴松之注と『資治通鑑』からです。
当時、豪傑の多くが兵を挙げて董卓を討とうと欲しました。
冀州は民人(人民)が殷盛(富裕)で、兵糧が優足(充足)していたため、袁紹勃海に入ると、冀州韓馥は袁紹が兵を興すことを恐れました。そこで韓馥は数人の部従事を派遣して袁紹を守らせ(監視させ)袁紹が行動できないようにしました(『資治通鑑』胡三省注によると、部従事は州が管轄する郡に送る従事です。勃海一郡に数人の部従事を派遣したことから、袁紹に対する強い警戒心がうかがえます)
東郡太守橋瑁が、京師の三公が州郡に送った書信を偽造し、董卓の罪悪を述べました。そこにはこう書かれています「逼迫を見ながら自らを救う術がない。義兵が国の患難を解くことを望む(見逼迫無以自救,企望義兵解国患難)。」
 
書を得た韓馥は諸従事を招いて意見を求め、こう問いました「今は袁氏を助けるべきだろうか?董氏を助けるべきだろうか(今当助袁氏邪,助董氏邪)?」
治中従事劉子恵が言いました「今、兵を興すのは国のためです。なぜ袁董を語るのですか(何謂袁董)。」
韓馥は自分の発言の誤りを知って慚愧の色を表しました。
劉子恵がまた言いました「兵とは凶事なので、首になるべきではありません(率先するべきではありません)。今は他州を見渡し(往視他州)、発動する者がいたら、その後に和すべきです。冀州が他州よりも弱いということはないので、他人の功で冀州の右(上)になるものはいません(我々が後から動いても、冀州より大きな功績を立てられる者はいません)。」
韓馥はこの意見に納得し、書信を書いて袁紹に送りました。董卓の悪行を述べて袁紹の挙兵に賛同の意を示します。
 
この韓馥に関する記述を、『三国志武帝紀』の注は袁紹等が挙兵する前に書いており、『資治通鑑』もそれに従っています。
後漢書袁紹劉表列伝(巻七十四上)』では挙兵後に書かれていますが、『資治通鑑』胡三省注は「もし挙兵後なら、袁紹が既に盟主になっているので、韓馥がどうして兵を発することを禁じられるだろう。挙兵前とする方が事実に近い」と解説しています。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代319 献帝(一) 反董卓同盟 190年(1)