東漢時代319 献帝(一) 反董卓同盟 190年(1)

今回から東漢献帝の時代です。
 
孝献皇帝
名を劉協といい、霊帝の中子(長子と末子以外の子)です。母は王美人ですが、何皇后に害されました。
資治通鑑』胡三省注によると、「協」には「合(共同。同じ)」の意味があります。霊帝献帝が自分に似ていたため、「協」を名にしました。
劉協の字は伯和といいます。
劉協死後、三国の蜀が「愍」という諡号を贈りましたが、通常は魏が贈った諡号である「献」が使われます。魏が漢の禅譲を受けた正統な王朝とされているからです。
 
霊帝中平六年189年)四月、霊帝が死んで少帝劉辯が即位し、劉協は勃海王に封じられました。後に陳留王に改封されます。
九月甲戌(初一日)、少帝が廃されて劉協が皇帝の位に即きました。これが献帝で、わずか九歳です。漢朝最後の皇帝になります。
 
前年(中平六年)の出来事は再述を避けます。
 
 
まずは献帝初平元年です。
 
東漢献帝初平元年
庚午 190
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
春正月、関東山東の州郡が董卓を討つためにそろって兵を挙げました。勃海太守袁紹を盟主に推します。
袁紹は自ら車騎将軍を号し、諸将も皆、官号を板授されました。
「板授」とは、天子が詔によって官員を任命するのではなく、諸侯や大臣が天子の代わりに暫定の官号を与えることです。
 
袁紹と河内太守王匡は河内に駐留し、冀州韓馥は鄴に留まって軍糧を供給しました。
豫州刺史孔伷は潁川に、兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、張邈の弟で広陵太守張超、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、済北相鮑信と曹操は共に酸棗に、後将軍袁術を魯陽に駐屯します(『資治通鑑』胡三省注によると、酸棗は陳留郡に属す県、魯陽は南陽郡に属す県です)
それぞれ数万の衆を擁していました。
 
豪桀の多くが袁紹に帰心しましたが、鮑信だけは曹操にこう言いました「謀略が巧妙で滅多に世に現れることがなく、乱を平定して正道に戻すことができるのはあなたです(夫略不世出能撥乱反正者,君也)。このような人でなければ、たとえ強くても必ず倒れます(苟非其人雖強必斃)。あなたは天が啓いた人物ではありませんか(天があなたを送ったのでしょう。原文「君殆天之所啓乎」)。」
 
以下、『三国志魏書一武帝紀』からです(上述の内容と重複します)
春正月、後将軍袁術冀州韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、河内太守王匡、勃海太守袁紹、陳留太守張邈、東郡太守橋瑁、山陽太守袁遺、済北相鮑信が同時に挙兵しました。それぞれ数万の衆を擁しており、袁紹を盟主に推します、
曹操は奮武将軍を代行しました(行奮武将軍)
 
武帝紀』裴松之注から袁遺について書きます。
袁遺の字は伯業といい、袁紹の従兄です。長安令を勤めました長安令の後、山陽太守になったようです)
河間の人張超がかつて袁遺を太尉朱儁に推薦し、袁遺を称えてこう言いました「(袁遺には)冠世の懿(天下に冠する美徳)と幹時の量(治世の度量、または時代の要求に応じている能力)があります。その忠允亮直(忠誠実直)は、元々天が放った(与えた)ものです(固天所縦)。書籍を網羅して、百氏諸子百家を総括し、高くに登って賦を善く作り、物を見て名を知ることにおいては(事物を判別することにおいては)、今日においてこれを求めても(袁遺のような人物を他に求めても)はるかに遠く、匹敵する者はいません(若乃包羅載籍,管綜百氏,登高能賦,覩物知名,求之今日,邈焉靡儔)。」
この事は『超集』に記載されています(『三国志集解』によると、『別部司馬張超集(超集)』五巻がありましたが、散佚しました)
 
後に袁紹が袁遺を用いて揚州刺史に任命しましたが、袁遺は袁術に敗れました。
曹操は「成長してからも学問に勤めることができたのは、ただ私と袁伯業だけだ」と称えました。
これは魏文帝曹丕の『典論』に書かれています。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
辛亥(初十日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
癸酉(中華書局『白話資治通鑑』は「癸酉」を恐らく誤りとしています)董卓が郎中令李儒を送って弘農王劉辯を酖毒で殺しました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』からです。
白波賊が東郡を侵しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
董卓が大軍を徴発して山東を討つことについて議論しました。
尚書鄭泰が言いました「政治の要は徳にあり、衆(人数)にあるのではありません(夫政在徳,不在衆也)。」
董卓が不快になって言いました「卿のその言の通りなら、兵とは無用なのか。」
鄭泰が言いました「そのような意味ではありません(非謂其然也)山東は大兵を加えるには足らないと考えただけです。明公は西州から出て、若くして将帥になり、軍事に習熟しています(閑習軍事)。袁本初(本初は袁紹の字です)は公卿の子弟で、京師で生まれ育ちました(生処京師)。張孟卓(孟卓は張邈の字です)は東平の長者で、堂に坐して妄りに視線を動かさないような人物です(坐不闚堂)。孔公緒(公緒は孔伷の字です)は清談高論して嘘枯吹生する者です(「嘘枯吹生」は枯れたものに息を吹いて生き返らせ、生きているものに息をかけて枯れさせることで、生死を逆転させるほど弁舌が優れているという意味です)(彼等には)そろって軍旅の才がなく、兵鋒に臨んで敵と勝負を決しても、公の儔(同輩。相手)ではありません(臨鋒決敵非公之儔也)。そもそも、(彼等は)王爵を加えられず、尊卑に秩序がないので、もしも衆と力に頼ったら(若恃衆怙力)、それぞれが棊峙(対峙)して成敗を観るだけで、心膽を一つにして進退をそろえようとはしません(不肯同心共膽與斉進退也)。更に、山東は承平(太平)の日が久しく、民は戦に習熟していません。関西は最近、羌寇に遭い、婦女も皆、弓を挟んで(持って)闘うことができます。天下が畏れる者で、并涼の人と羌胡の義従(朝廷に帰順した少数民族に勝る者はいません。明公はこれを擁して爪牙としているので、虎兕(『資治通鑑』胡三省注によると、「兕」は牛に似た一角の猛獣です)を駆けて犬羊に向かわせ、烈風を起こして枯葉を掃くようなものです。誰が抵抗できるでしょう(誰敢禦之)。事がないのに徵兵して天下を驚かせたら、患役の民(兵役を患いる民)が集まって非を為すようにしてしまいます。徳を棄てて衆に頼るのは、自ら威重を損なうことです。」
董卓は進言に喜びました。
 
 
 
次回に続きます。