東漢時代320 献帝(二) 遷都 190年(2)
公卿は皆、遷都を望みませんでしたが、敢えて発言する者がいません。
ところが、使者が朱儁を召して任命しようとしても、朱儁はそれを受けようとせず、この機に「国家が西遷したら必ず天下の望に裏切り(孤天下之望)、山東の釁(禍乱)を成功させることになります。臣はその可(善)を知りません」と言いました。
使者が言いました「君を召して任命を受けさせたのに君はこれを拒み、徙事(遷都の事)を問うていないのに君はこれを述べた。何故だ?」
朱儁が言いました「相国の副となるのは、臣が堪えられること(できること)ではありません。遷都が計(良計)ではないのは、急とすることです。堪えられないこと(できないこと)を辞して急とすることを語るのは、臣の宜(あるべき姿)です。」
董卓が公卿を集めて会を開き、遷都について討議してこう言いました「高祖が関中を都にして十一世で光武が雒陽に宮を築き、今でまた十一世になる。『石包讖(預言書の一種)』によるなら、長安に徙都(遷都)して天人の意(天意と民心)に応じるべきだ。」
百官は皆黙って何も言いません。
司徒・楊彪が言いました「都を移して制度を改めるのは(移都改制)天下の大事です。だから(商王)盤庚が亳に遷った時、殷民が胥怨(怨恨)しました。昔、関中は王莽の残破(破壊)に遭ったので、光武が雒邑に都を改めました。(その後)年を経て既に久しくなり、百姓が安楽しています。今、故(理由)がないのに宗廟と園陵を棄てたら(捐宗廟棄園陵)、恐く百姓が驚動し、必ず糜沸(沸騰した粥。混乱を意味します)の乱が起きます。『石包讖』は妖邪の書です。どうして信用できるでしょう(豈可信用)。」
董卓が言いました「関中は肥饒(肥沃)だから秦が六国を并呑(併呑)できた。しかも隴右は材木を自ら産出し、杜陵には武帝の陶竈(陶器を製造する竈。陶器の製造所)がある。功(力。能力)を併せてこれを営めば一朝にして完成できる(并功営之可使一朝而辦)。百姓がなぜ議論するに足りるのか(百姓何足與議)。もしも(わしの)前で遮る者がいたら、わしは大兵(大軍)でこれを駆逐して滄海(大海。東海)に送ることができる(若有前卻我以大兵駆之,可令詣滄海)。」
楊彪が言いました「天下とは、これを動かすのは至って容易ですが、安んじるのは甚だ困難です。明公の思慮を願います。」
太尉・黄琬が言いました「これは国の大事です。楊公の言は考慮するべきではありませんか(得無可思)。」
董卓は何も言いません。
司空・荀爽は董卓の意志が固いのを見て、楊彪等が害されることを恐れ、おだやかな口調でこう言いました(従容言曰)「相国は喜んでこうしようとしているのではありません(相国豈楽此邪)。山東の兵が起きており、一日で禁じられるものではないので、遷ることでこれを図ったのです(遷都によって対応しようとしているのです。原文「故当遷以図之」)。これは秦・漢の勢です(『資治通鑑』胡三省注が解説いています。秦と西漢は関中に都を置き、山河の形勢を利用して天下を制しました。董卓もこれに倣おうとしました)。」
黄琬は退きましたが、再び遷都に反対する主張を提出しました(又為駁議)。
城門校尉・伍瓊、督軍校尉・周毖が頑なに遷都を諫めたため、董卓が激怒して言いました「卓(わし)が入朝したばかりの時、二君が善士を用いるように勧めたから、卓はそれに従ったのだ。しかし諸君(彼等)は官に就くと挙兵して互いに図った。これは二君が卓を売ったのだ。卓が何をもって(汝等を)裏切ったのだ(卓何用相負)!」
「周毖」は『資治通鑑』の記述で、『三国志・魏書六 董二袁劉伝』でも「周毖」ですが、『後漢書・孝献帝紀』は「周珌」としています。『孝献帝紀』の注によると、周珌は豫州刺史・周慎の子です(霊帝中平六年・189年参照)。
皇甫嵩の長史・梁衍が皇甫嵩に言いました「董卓は京邑を寇掠(侵略・略奪)し、廃立を意のままに行いました(廃立従意)。今、将軍を徵しましたが(召しましたが)、大きければ危禍があり、小さくても困辱があります。今、董卓が雒陽におり、天子が西に来た機会に乗じて、将軍の衆をもって至尊(皇帝)を迎接し(迎え入れ)、令を奉じて逆を討ち、兵を徴発して帥(将)を集めるべきです(徵兵群帥)。袁氏がその東を逼迫し、将軍がその西を逼迫すれば、(董卓を)捕えることができます(此成禽也)。」
『資治通鑑』胡三省注は「皇甫嵩は以前、兄子(甥)・皇甫酈の言に従うことができず、今回また梁衍の策に従わなかった。ここからその才が董卓を制すには足りなかった理由をうかがい知ることができる」と書いています。
蓋勳も衆が弱く独立できないため、京師に還りました。
董卓は蓋勳を越騎校尉に任命しました。
河南尹・朱儁が董卓のために軍事について述べると、董卓はそれを遮ってこう言いました「わしは百戦百勝しており、心中でこれを決している(自分の考えがある。原文「決之於心」)。卿は妄りに説くな。我が刀の汚れとなるだろう(且汙我刀)。」
蓋勳が言いました「昔、武丁(武丁は商王高宗です。『資治通鑑』胡三省注は「武丁」は「武公」の誤りで、春秋時代の衛武公を指すのではないかとしています。どちらも諫言を受け入れました)の明があってもまだ箴諫を求めました。(武丁に及ばない)卿(あなた)のような者が人の口を塞ごうと欲するのですか(況如卿者而欲杜人之口乎)。」
董卓は謝罪しました。
董卓が軍を派遣し、陽城に到りました。
ちょうど民が社(土地神の社)に集まっていました。
丁亥(十七日)、車駕(皇帝の車)が西に遷りました。
残った民数百万口を全て駆って西に入関させ、長安に移しました。
歩騎が逼迫して民が互いに踏み合います(步騎駆蹙更相蹈藉)。更に飢餓と寇掠(略奪)によって死体が積まれて路を満たしました。
董卓自身は留まって畢圭苑に駐屯し、宮廟、官府、居家(住居)を全て焼きました(これは『資治通鑑』の記述です。『孝献帝紀』は三月に書いています。下述します)。二百里以内の室屋(家屋)が全て無くなり(蕩尽)、鶏や犬もいなくなります。
壬辰(二十二日)、白虹が日(太陽)を貫きました。
次回に続きます。