東漢時代321 献帝(三) 孫堅挙兵 190年(3)
『資治通鑑』からです。
孫堅も挙兵しました。
王叡は以前から武陵太守・曹寅との関係がうまくいかなかったため、先に曹寅を殺すと宣言しました。
孫堅は檄文を受け取るとすぐに兵を整えて王叡を襲いました。
王叡は兵が来たと聞いて楼に登って外を眺め、人を送って「何をするつもりだ(欲何為)?」と問いました。
王叡は「刺史がどうして惜しむことがあるか(刺史豈有所吝)」と言うと、庫藏を開き、兵達に自ら中に入って残っている物がないか確認させました。
兵達は前に進んで楼下に至ります。
すると王叡が孫堅を見つけました。驚いて「兵が自ら賞を求めているのに、孫府君がなぜその中に居るのだ?」と問います。
孫堅が言いました「使者の檄を被って君を誅すのです。」
王叡が問いました「わしに何の罪があるのだ(我何罪)?」
窮迫した王叡は金を削り、それを飲んで死にました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「生金」には毒がありました。「生金」は天然の金を含む鉱石です。
張咨の字は子議(または「子儀」)といい、潁川の人で、名声がありました。
そのため、張咨は孫堅に軍糧を提供しませんでした。
酒がまわった頃(酒酣)、長沙主簿が部屋に入って孫堅に報告しました「以前、(檄を)南陽に送りましたが、道路は治められず(整備されておらず)、軍需物資も準備されていません(軍資不具)。(南陽の)主簿を捕えて理由を追及することを請います(請收主簿推問意故)。」
張咨は大いに懼れて去ろうとしましたが、兵が四周に配置されているため外に出られません。
暫くして主簿がまた入室し、孫堅に報告しました「南陽太守は義兵を稽停(停留)させ、賊をすぐに討たせないようにしています(使賊不時討)。(太守を)逮捕して連れ出し、軍法に基いて処理することを請います(請收出案軍法従事)。」
(主簿は)張咨を引っ張り出して軍門で斬りました。
孫堅は兵を進めようとしましたが、後患を残す恐れがあります。そこで急疾(急病)を患ったと偽りました。全軍を挙げて震惶(恐れ震えること)させ、巫医(巫師・医者)を呼び招き、山川を祈祷します。同時に親しい者を派遣して張咨に「病が重いので(病困)、兵を張咨に附属させたい」と告げさせました。
孫堅は臥したまま張咨に会います。
ところが孫堅が突然立ち上がり、剣に手を置いて張咨を罵ると、そのまま張咨を捕えて斬り殺しました。
本文に戻ります。
孫堅は魯陽城で兵を整えました。
『後漢書・劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』はこう書いています「袁術は董卓の禍を畏れて南陽に出奔した。ちょうど長沙太守・孫堅が南陽太守・張咨を殺し、兵を率いて袁術に従った。劉表が上書して袁術を南陽太守にし、袁術も上表して孫堅を領豫州刺史にした(劉表上術為南陽太守,術又表堅領豫州刺史)。」
しかし『後漢書・袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』にはこうあります「長沙太守・孫堅が荊州刺史・王叡を殺した。(朝廷の)詔書が劉表を荊州刺史に任命したが、当時は江南の宗賊(宗族・郷党が集まって賊になった者)が大いに盛んで、また、袁術が兵力にたよって魯陽に駐屯していたため、劉表は(荊州に)到着できなかった。そこで単馬で宜城に入った(劉表が上書して袁術を南陽太守にしたという記述はありません)。」
次回に続きます。