東漢時代321 献帝(三) 孫堅挙兵 190年(3)

今回も東漢献帝初平元年の続きです。
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
三月乙巳(初五日)、車駕(皇帝の車)長安に入り、未央宮を行幸しました。
『欽定四庫全書後漢(袁弘)』では「三月己巳(二十九日)」ですが、『資治通鑑』は『後漢書孝献帝紀』に従って「乙巳」としています。
 
孝献帝紀』の注によると、献帝が入宮しようとした日、大雨が降って昼なのに暗くなり(昼晦)、翟雉(鳥)が飛んで長安宮に入りました。
 
資治通鑑』からです。
献帝は京兆府舍に住み(未央宮は住める状態ではなかったようです)、後に宮室を少し修築してそこに住みました(稍葺宮室而居之)
この時、董卓がまだ長安に入っていなかったため、朝政の大小は全て王允に委ねました。
王允は外は欠陥を補い(彌縫)、内は王室のために謀り、甚だ大臣としての度量があったため、天子および朝中(朝廷の百官)が全て王允に頼りました。
また、王允は意を屈して董卓に迎合したため、董卓も以前から信用していました。
 
[十二] 『後漢書孝献帝紀』からです。
己酉(初九日)董卓が洛陽(雒陽)の宮廟や人家を焼きました(『資治通鑑』は二月に書いています)
 
[十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
戊午(十八日)袁紹が背いたため、董卓が太傅袁隗、太僕袁基および袁家の尺口(嬰児)以上の者五十余人を殺しました。
 
孝献帝紀』の注によると、袁隗は袁紹の叔父、袁基は袁術の同母兄です。
 
[十四] 『後漢書孝献帝紀』『三国志呉書一孫破虜討逆伝裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。
霊帝の死後、董卓が朝政を専断し、京城でほしいままに横行したため、諸州郡が並んで義兵を興して董卓を討伐しようとしました。
それを聞いた長沙太守孫堅は胸を叩いて嘆息し、「張公(張温)が昔、我が言に従っていたら、朝廷には今この難がなかった」と言いました霊帝中平二年185年参照)
 
孫堅も挙兵しました。
 
以前、荊州刺史王叡と長沙太守孫堅が共に零陵桂陽の賊を撃ちましたが、孫堅が武官だったため、王叡には孫堅を頗る軽視する言葉があり、待遇に礼を失していました。
王叡は字を通耀といい(『三国志・孫破虜討逆伝』裴松之注では「通耀」ですが、『後漢書孝献帝紀』の注では「通曜」です)西晋の太保王祥の伯父です。王祥は二十四孝の一人です。
 
州郡が董卓討伐の兵を挙げるようになると、王叡も挙兵して董卓を討伐しようとしました。
王叡は以前から武陵太守曹寅との関係がうまくいかなかったため、先に曹寅を殺すと宣言しました。
懼れた曹寅は偽って按行使者(地方を巡視する朝廷の使者)光禄大夫温毅の檄文を作り、孫堅に送りました。檄文は王叡の罪過を述べ、逮捕して刑を行ってから状況を報告するように命じています。
 
孫堅は檄文を受け取るとすぐに兵を整えて王叡を襲いました。
王叡は兵が来たと聞いて楼に登って外を眺め、人を送って「何をするつもりだ(欲何為)?」と問いました。
孫堅の前部(先鋒)が答えました「兵が久しく戦って労苦しているのに、(今までに)得た賞では衣服を作るのにも足りないので、使君(王叡)を訪ねて資直(費用。資財)を求めたいと欲しているだけです。」
王叡は「刺史がどうして惜しむことがあるか(刺史豈有所吝)」と言うと、庫藏を開き、兵達に自ら中に入って残っている物がないか確認させました。
兵達は前に進んで楼下に至ります。
すると王叡が孫堅を見つけました。驚いて「兵が自ら賞を求めているのに、孫府君がなぜその中に居るのだ?」と問います。
孫堅が言いました「使者の檄を被って君を誅すのです。」
王叡が問いました「わしに何の罪があるのだ(我何罪)?」
孫堅は「何も知らない(無所知)という罪に坐したのだ(情勢を把握できなかったことが罪だ。原文「坐無所知」)」と答えました。
窮迫した王叡は金を削り、それを飲んで死にました。
資治通鑑』胡三省注によると、「生金」には毒がありました。「生金」は天然の金を含む鉱石です。
 
孫堅が進軍を続けて南陽に到りました。兵衆は既に数万人になっています。
 
南陽太守張咨は孫堅の軍が来たと聞いてもいつも通り平然としていました(晏然自若)
張咨の字は子議(または「子儀」)といい、潁川の人で、名声がありました。
 
これ以前に、袁術孫堅を推挙する上表をして假中郎将に任命しました。
孫堅南陽に至った時、檄文を太守張咨に送って軍糧を請いました。
張咨が綱紀に意見を求めると、綱紀は「孫堅は鄰郡の二千石(太守)です。調発に応じるべきではありません」と答えました。
そのため、張咨は孫堅に軍糧を提供しませんでした。
 
孫堅は張咨を誘い出すため、牛酒を使って礼を行いました(挨拶しました)。張咨も翌日、答礼のために孫堅を訪ねます。
酒がまわった頃(酒酣)、長沙主簿が部屋に入って孫堅に報告しました「以前、(檄を)南陽に送りましたが、道路は治められず(整備されておらず)、軍需物資も準備されていません(軍資不具)南陽の)主簿を捕えて理由を追及することを請います(請收主簿推問意故)。」
張咨は大いに懼れて去ろうとしましたが、兵が四周に配置されているため外に出られません。
暫くして主簿がまた入室し、孫堅に報告しました「南陽太守は義兵を稽停(停留)させ、賊をすぐに討たせないようにしています(使賊不時討)(太守を)逮捕して連れ出し、軍法に基いて処理することを請います(請收出案軍法従事)。」
(主簿は)張咨を引っ張り出して軍門で斬りました。
この後、郡中が震慄(震撼)し、孫堅が求めて獲られない物はありませんでした。
 
三国志裴松之注は異なる説も紹介しています。
孫堅南陽に到着した時、張咨は軍糧を提供せず、孫堅に会おうともしませんでした。
孫堅は兵を進めようとしましたが、後患を残す恐れがあります。そこで急疾(急病)を患ったと偽りました。全軍を挙げて震惶(恐れ震えること)させ、巫医(巫師医者)を呼び招き、山川を祈祷します。同時に親しい者を派遣して張咨に「病が重いので(病困)、兵を張咨に附属させたい」と告げさせました。
これを聞いた張咨は心中でその兵を占有したいと考え(心利其兵)、歩騎五六百人を率いて孫堅に会うために営を訪ねました。
孫堅は臥したまま張咨に会います。
ところが孫堅が突然立ち上がり、剣に手を置いて張咨を罵ると、そのまま張咨を捕えて斬り殺しました。
 
本文に戻ります。
張咨を殺した孫堅はさらに前進して魯陽に至り、袁術と兵を合わせました。
資治通鑑』胡三省注によると、魯陽は南陽郡に属す県です。
 
袁術はこれを機に南陽を占拠し、孫堅を推挙する上表を行って、破虜将軍代理(行破虜将軍)豫州刺史(兼豫州刺史)に任命しました。
孫堅は魯陽城で兵を整えました。
 
後漢書劉焉袁術呂布列伝(巻七十五)』はこう書いています「袁術董卓の禍を畏れて南陽に出奔した。ちょうど長沙太守孫堅南陽太守張咨を殺し、兵を率いて袁術に従った。劉表が上書して袁術南陽太守にし、袁術も上表して孫堅を領豫州刺史にした劉表上術為南陽太守,術又表堅領豫州刺史)。」
しかし『後漢書袁紹劉表列伝下(巻七十四下)』にはこうあります「長沙太守孫堅荊州刺史王叡を殺した。(朝廷の)詔書劉表荊州刺史に任命したが、当時は江南の宗賊(宗族郷党が集まって賊になった者)が大いに盛んで、また、袁術が兵力にたよって魯陽に駐屯していたため、劉表荊州に)到着できなかった。そこで単馬で宜城に入った劉表が上書して袁術南陽太守にしたという記述はありません)。」
袁紹劉表列伝下』によると、劉表は大将軍何進に召されていたため、当時は朝廷にいたようです。宜城は南郡に属します(下述)
三国志魏書六董二袁劉伝』には「長沙太守孫堅南陽太守張咨を殺し、袁術がその郡を占拠した」とあり、『三国志魏書武帝紀』にも「袁術南陽に駐屯した」とあります。
資治通鑑』胡三省注は「袁術は魯陽に奔り、この春、孫堅南陽を取ったので、袁術がこれを拠点にした。魯陽が治所になったようだ」と解説しています。これ以前の南陽郡の治所は宛です。
 
 
 
次回に続きます。