東漢時代322 献帝(四) 曹操敗北 190年(4)

今回も東漢献帝初平元年の続きです。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
朝廷が詔によって北軍中候劉表荊州刺史に任命しました。
当時は寇賊が縦横(横行)しており、道路が塞がっていたため、劉表は単馬で宜城に入りました。
資治通鑑』胡三省注によると、宜城は南郡に属す県で、元は鄢といいましたが、西漢恵帝三年に宜城に改名しました。
 
劉表は南郡の名士蒯良、蒯越を招いて共に謀りました。
劉表が言いました「今は江南の宗賊が甚だ盛んで、それぞれ衆を擁して附こうとしない(帰順しない)。もし袁術がこれに乗じたら、必ず禍が至るだろう。そこで私は徴兵したいと思うが、恐らく集めることができない。何か策がないか(其策焉出)?」
蒯良が言いました「衆が附かないのは仁が不足しているからです。(衆が)附いても治まらないのは義が不足しているからです。もし仁義の道が行われたら、百姓は水が下に向かうように帰服します(百姓帰之如水之趣下)。なぜ徴兵して集まらないことを患いるのでしょう。」
蒯越が言いました「袁術は驕(驕慢)でしかも無謀です。宗賊の帥は多くが貪暴なので、下の者の患いとなっています。もし人を使って利を示せば、必ず(民衆が)集まって帰順します(必以衆来)。使君がその無道な者だけを誅殺し、彼等を慰撫して用いれば、一州の人が楽存の心(正常な生活を楽しむ心)を持ち、君(あなた)の威徳を聞いたら必ず幼児を背負って訪れるようになります(襁負而至)。兵が集まって衆が附いたら、南は江陵に拠り、北は襄陽を守ります。そうすれば荊州八郡が檄を伝えるだけで平定できます(『資治通鑑』胡三省注によると、南陽、南郡、江夏、零陵、桂陽、長沙、武陵と章陵が荊州八郡です)(その時になったら)たとえ公路袁術の字)が来ても何もできません(無能為也)。」
劉表は「素晴らしい(善)」と言って蒯越に宗賊の帥を誘わせました。
誘いに応じて来た五十五人を全て斬って彼等の衆を吸収します。
 
その後、治所を襄陽に遷し、郡県を鎮撫しました。こうして荊州の江南が全て平定されます。
資治通鑑』胡三省注によると、荊州刺史は本来、武陵郡漢寿を治所にしました。襄陽は南郡に属す県です。
荊州の江南地区は長沙、武陵、零陵、桂陽の四郡を指します。
 
[十六] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
董卓が雒陽に留まっていたため、袁紹等の諸軍は皆、強大な董卓軍を畏れ、敢えて先に進もうとしませんでした(『三国志魏書一武帝紀』は「二月、山東で)兵が起きたと聞いた董卓は、天子を遷して長安を都にした。董卓は洛陽に留屯し、宮室を焼いた。当時、袁紹が河内に駐屯し、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺が酸棗に駐屯し、袁術南陽に駐屯し、孔伷が潁川に駐屯し、韓馥が鄴にいたが、董卓の兵が強かったため、袁紹等は敢えて先に進まなかった」と書いています。『資治通鑑』では既に「三月」になっています)
 
そこで曹操が言いました(『武帝紀』から引用します)「義兵を挙げて暴乱を誅し、大衆が既に合したのに、諸君は何を疑うのか(躊躇するのか)。もしも董卓が、山東の兵が起きたと聞いて、王室の重に倚り(王室の重い権威を利用して)、二周(東周時代の西周と東周の地)の険に拠り(原文「拠二周之険」。『資治通鑑』は「旧京(雒陽)に拠り(拠旧京)」と書いています)、東に向かって天下に臨んでいたら、無道によってそれを行ったとしても、まだ患いとなるに足りた。しかし今、宮室を焚焼し(焼き払い)、天子を脅迫して遷したので(劫遷天子)、海内が震動して帰すべきところを知らない。今こそ天がこれ董卓を亡ぼす時だ(此天亡之時也)。一戦するだけで天下が定まるだろう。(この好機を)失ってはならない。」
 
曹操は兵を率いて西に向かい、成皋を占拠しようとしました。
張邈も将衛茲を派遣し、兵を分けて曹操に従わせます。
 
曹操は滎陽汴水(『資治通鑑』胡三省注によると、汴水は滎陽の西南に位置します)に至った時、董卓の将で玄菟の人徐栄に遭遇しました。交戦の結果、利を失い、甚だ多数の士卒が死傷します。
曹操も流矢に中り、乗っていた馬も傷を負いました。
曹操の従弟曹洪が馬を曹操に譲りましたが、曹操は受け取ろうとしません。
曹洪が言いました「天下に洪(私)がいないのは許されますが、君(あなた)がいないわけにはいきません(天下可無洪,不可無君)!」
曹洪は歩いて曹操に従い、二人とも夜の間に遁走しました。
 
徐栄曹操が指揮する兵が少ないのに一日中力戦しなければならなかったのを見て、「酸棗を攻略するのは容易ではない」と言い、兵を率いて還りました。
 
曹操が酸棗に戻った時、諸軍十余万は日々酒を準備して宴を開いており、進取を図りませんでした。
曹操は諸将を譴責し、謀を立ててこう言いました「諸君が我が計を聴くことができるのなら、勃海袁紹に河内の衆を率いて孟津に臨ませ、酸棗諸将は成皋を守り、敖倉に拠り、轘轅太谷を塞いでその険を全て制し、袁将軍袁術南陽の軍を率いて丹析に駐軍させ(『資治通鑑』胡三省注によると、丹水と析県は弘農郡に属します)、武関に入って三輔を震わせるべきだ。皆、塁を高くして壁を深くし、(敵と)戦うことなく、疑兵を増やし、天下の形勢を示して(天下が董卓に反対しているという形勢を示して)、順(正道)によって逆(逆賊)を誅せば、すぐに平定できる(可立定也)。今、兵が義によって動かされたのに、躊躇して進まなかったら(持疑而不進)、天下の望を失うことになる。心中で諸君のためにこれを恥じと思う(竊為諸君恥之)。」
しかし張邈等は曹操の意見を用いることができませんでした。
 
曹操は兵が少ないため、司馬沛国の人夏侯惇等と共に揚州を訪ねて兵を募りました。刺史陳温や丹楊(恐らく「丹陽」の誤りです)太守周昕が曹操に兵四千余人を与えます。
しかし曹操が龍亢に至った時、士卒の多くが叛しました。
武帝紀』裴松之注によると、兵が謀叛して夜の間に曹操の帳を焼きました。
曹操が手に剣を持って数十人を殺すと、残った者は皆披靡(潰散、四散)します。
曹操はやっと営から出ることができました。謀反しなかった者は五百余人いました。
 
曹操は銍、建平(どちらも地名です)に至り、再び兵を集めて千余人を得てから、河内に進んで駐屯しました(河内の袁紹に従いました)
 
[十七] 『三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
暫くして酸棗諸軍の食糧が尽きたため、兵衆が四散しました。
 
兗州刺史劉岱と東郡太守橋瑁は憎み合っていたため、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に東郡太守を領させました(領東郡太守。「領」は兼任の意味ですが、王肱が何の職と兼任したのかは分かりません。あるいは、この「領」は「担当」の意味かもしれません)
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
青州刺史焦和(『資治通鑑』胡三省注によると、西周武王が神農の後代を焦に封じたため、後に国名が氏になりました)董卓討伐の兵を挙げ、酸棗の諸将と合流するために尽力して西に向かいました。
しかし民人のために保障を為さなかったため(民衆を守る措置をとらなかったため)、兵が河を渡ったばかりの時、黄巾が青州境界に入りました。
 
青州はかねてから殷実(富裕)で、甲兵も甚だ盛んでしたが(士兵も強盛でしたが。または装備も優れていましたが。原文「甲兵甚盛」)、焦和はいつも寇賊に望むと敗走し、風塵に接して旗鼓を交えたことがありませんでした。
 
焦和は元々卜筮を好み、鬼神を信じていました。部屋に入ってその人を見ると、清談して高尚でしたが(清談干雲)、外に出てその政治を観ると、賞罰が混乱しています。そのため州は蕭條(凄寂。寂しい様子)とし、ことごとく丘墟(廃墟)になりました。
 
暫くして焦和が病死しました。
袁紹広陵の人臧洪に青州刺史を領(担当)させ(領青州青州の民衆を慰撫させました。
 
 
 
次回に続きます。