東漢時代322 献帝(四) 曹操敗北 190年(4)
劉表が言いました「今は江南の宗賊が甚だ盛んで、それぞれ衆を擁して附こうとしない(帰順しない)。もし袁術がこれに乗じたら、必ず禍が至るだろう。そこで私は徴兵したいと思うが、恐らく集めることができない。何か策がないか(其策焉出)?」
蒯良が言いました「衆が附かないのは仁が不足しているからです。(衆が)附いても治まらないのは義が不足しているからです。もし仁義の道が行われたら、百姓は水が下に向かうように帰服します(百姓帰之如水之趣下)。なぜ徴兵して集まらないことを患いるのでしょう。」
蒯越が言いました「袁術は驕(驕慢)でしかも無謀です。宗賊の帥は多くが貪暴なので、下の者の患いとなっています。もし人を使って利を示せば、必ず(民衆が)集まって帰順します(必以衆来)。使君がその無道な者だけを誅殺し、彼等を慰撫して用いれば、一州の人が楽存の心(正常な生活を楽しむ心)を持ち、君(あなた)の威徳を聞いたら必ず幼児を背負って訪れるようになります(襁負而至)。兵が集まって衆が附いたら、南は江陵に拠り、北は襄陽を守ります。そうすれば荊州八郡が檄を伝えるだけで平定できます(『資治通鑑』胡三省注によると、南陽、南郡、江夏、零陵、桂陽、長沙、武陵と章陵が荊州八郡です)。(その時になったら)たとえ公路(袁術の字)が来ても何もできません(無能為也)。」
誘いに応じて来た五十五人を全て斬って彼等の衆を吸収します。
その後、治所を襄陽に遷し、郡県を鎮撫しました。こうして荊州の江南が全て平定されます。
荊州の江南地区は長沙、武陵、零陵、桂陽の四郡を指します。
董卓が雒陽に留まっていたため、袁紹等の諸軍は皆、強大な董卓軍を畏れ、敢えて先に進もうとしませんでした(『三国志・魏書一・武帝紀』は「二月、(山東で)兵が起きたと聞いた董卓は、天子を遷して長安を都にした。董卓は洛陽に留屯し、宮室を焼いた。当時、袁紹が河内に駐屯し、張邈、劉岱、橋瑁、袁遺が酸棗に駐屯し、袁術が南陽に駐屯し、孔伷が潁川に駐屯し、韓馥が鄴にいたが、董卓の兵が強かったため、袁紹等は敢えて先に進まなかった」と書いています。『資治通鑑』では既に「三月」になっています)。
そこで曹操が言いました(『武帝紀』から引用します)「義兵を挙げて暴乱を誅し、大衆が既に合したのに、諸君は何を疑うのか(躊躇するのか)。もしも董卓が、山東の兵が起きたと聞いて、王室の重に倚り(王室の重い権威を利用して)、二周(東周時代の西周と東周の地)の険に拠り(原文「拠二周之険」。『資治通鑑』は「旧京(雒陽)に拠り(拠旧京)」と書いています)、東に向かって天下に臨んでいたら、無道によってそれを行ったとしても、まだ患いとなるに足りた。しかし今、宮室を焚焼し(焼き払い)、天子を脅迫して遷したので(劫遷天子)、海内が震動して帰すべきところを知らない。今こそ天がこれ(董卓)を亡ぼす時だ(此天亡之時也)。一戦するだけで天下が定まるだろう。(この好機を)失ってはならない。」
曹操は兵を率いて西に向かい、成皋を占拠しようとしました。
曹操も流矢に中り、乗っていた馬も傷を負いました。
曹操が酸棗に戻った時、諸軍十余万は日々酒を準備して宴を開いており、進取を図りませんでした。
曹操は諸将を譴責し、謀を立ててこう言いました「諸君が我が計を聴くことができるのなら、勃海(袁紹)に河内の衆を率いて孟津に臨ませ、酸棗諸将は成皋を守り、敖倉に拠り、轘轅・太谷を塞いでその険を全て制し、袁将軍(袁術)に南陽の軍を率いて丹・析に駐軍させ(『資治通鑑』胡三省注によると、丹水と析県は弘農郡に属します)、武関に入って三輔を震わせるべきだ。皆、塁を高くして壁を深くし、(敵と)戦うことなく、疑兵を増やし、天下の形勢を示して(天下が董卓に反対しているという形勢を示して)、順(正道)によって逆(逆賊)を誅せば、すぐに平定できる(可立定也)。今、兵が義によって動かされたのに、躊躇して進まなかったら(持疑而不進)、天下の望を失うことになる。心中で諸君のためにこれを恥じと思う(竊為諸君恥之)。」
しかし張邈等は曹操の意見を用いることができませんでした。
しかし曹操が龍亢に至った時、士卒の多くが叛しました。
曹操はやっと営から出ることができました。謀反しなかった者は五百余人いました。
暫くして酸棗諸軍の食糧が尽きたため、兵衆が四散しました。
兗州刺史・劉岱と東郡太守・橋瑁は憎み合っていたため、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に東郡太守を領させました(領東郡太守。「領」は兼任の意味ですが、王肱が何の職と兼任したのかは分かりません。あるいは、この「領」は「担当」の意味かもしれません)。
青州はかねてから殷実(富裕)で、甲兵も甚だ盛んでしたが(士兵も強盛でしたが。または装備も優れていましたが。原文「甲兵甚盛」)、焦和はいつも寇賊に望むと敗走し、風塵に接して旗鼓を交えたことがありませんでした。
焦和は元々卜筮を好み、鬼神を信じていました。部屋に入ってその人を見ると、清談して高尚でしたが(清談干雲)、外に出てその政治を観ると、賞罰が混乱しています。そのため州は蕭條(凄寂。寂しい様子)とし、ことごとく丘墟(廃墟)になりました。
暫くして焦和が病死しました。
次回に続きます。