東漢時代323 献帝(五) 公孫度 190年(5)
夏四月、(朝廷が)幽州牧・劉虞を太傅に任命しましたが、道路が遮断されているため、信命(命令・任命書)を送ることができませんでした。
しかし当時は所々で道が断絶されており、輸送した物資が届かなくなりました。
そこで劉虞は古くなった服を着て草履を履き(敝衣縄屨)、食事は二つ以上の肉を並べず(食無兼肉)、務めて寛大な政治に留意し(務存寛政)、農桑(農業)を勧督(奨励)し、上谷の胡市の利を開き、漁陽の塩鉄の饒(豊かな物資)を通じさせました(『資治通鑑』胡三省注によると、上谷にはかつて関市があり、胡人と貿易をしていました。漁陽には塩官と鉄官が置かれていました。劉虞はこれらを恢復して利益をもたらしました)。
劉虞はこれらを全て収容・慰撫して安定した生業を立てさせました。
流民は皆、移住して来たことを忘れるほどでした。
五月、司空・荀爽が死にました。
裴松之注では、王匡に捕えられた胡母班が王匡に書を送っており、その文中に「僕(私)と太傅・馬公、太僕・趙岐、少府・陰脩が共に詔命を受けた(詔によって使者になった)」と書かれています。しかし朝廷が馬日磾と趙岐に命じて天下を慰撫させるのは初平三年(192年)八月の事で、董卓は既に死んでいるので、時代が合いません。
陰脩も袁術に殺されました。
韓融だけは名徳のおかげで禍を免れました。
董卓が五銖銭を廃止し、改めて小銭を鋳造しました。
五銖銭は西漢から流通していた貨幣で、王莽が廃しましたが、光武の中興後にまた使われるようになりました。
五銖は重さです。十黍で一絫、十絫で一銖、二十四銖で一両になります。
「鐘虡」は鐘を掛ける台で、神獣や猛獣の飾りが施されていました。
上の記述では、飛廉と銅馬も長安から集めたと書かれていますが、実際には雒陽にあったはずです。
左中郎将・蔡邕が建議しました「孝和(和帝)以下の廟号で宗を称している者は、全て省いて先典(以前の制度)を遵守するべきです(皆宜省去以遵先典)。」
『資治通鑑』胡三省注を元に解説します。
礼においては、「祖」は功がある者、「宗」は徳がある者の廟号に使われます。今回、和帝以下は徳がないのに「宗」が使われているとみなされ、全て廃されました。
この年、有司(『資治通鑑』は蔡邕としています)が上奏し「和・安・順・桓の四帝は功徳がないので宗を称すべきではありません。また、恭懐・敬隠・恭愍の三皇后も共に正嫡ではないので、后を称すのは相応しくありません。皆、尊号を除くことを乞います」と言いました。
『孝献帝紀』の注によると、和帝は穆宗、安帝は恭宗、順帝は敬宗、桓帝は威宗という廟号が贈られ、和帝の母・梁貴人は恭懐皇后、安帝の祖母・宋貴人は敬隠皇后、順帝の母・李氏は恭愍皇后という諡号が贈られていました。本年、これらの廟号と諡号が除かれました。
孫堅が軍を進めて董卓を討つに当たって、長史・公仇称に兵を率いて任務に従事させ(原文「将兵従事」)、州に還って軍糧を督促させました。魯陽城東門外に帳幔を施し、道の神を祀って公仇称を送り出します(祖道送称)。官属がそろって会飲しました。
『三国志・魏書六・董二袁劉伝』は「泰山兵を派遣して河陽津に駐屯させた(遣泰山兵屯河陽津)」と書いていますが、『資治通鑑』は「王匡が河陽津に駐屯した(王匡屯河陽津)」としています。ここでは「王匡が泰山兵を率いて河陽津に駐屯した」と解釈しました。
その後、東は高句驪を討伐し、西は烏桓を撃ちました。
公孫度が親しくしている官吏・柳毅(『資治通鑑』胡三省注によると、魯孝公の子を子展といい、その孫が祖父の字から展を氏にしました。その後、展禽の代に至って柳下を食邑にしたため、氏を柳に改めました)、陽儀等に言いました「漢祚(漢の皇位)はもうすぐ絶たれる。諸卿と共に王になることを図るべきだ(『資治通鑑』の原文は「当與諸卿図正耳」ですが、『三国志・魏書八・二公孫陶四張伝』では「図正」ではなく「図王」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)。」
そこで公孫度は遼東を分けて遼西郡と中遼郡を設け、それぞれに太守を置きました。
また、海を越えて東莱の諸県を収め、営州刺史を置きました。
次回に続きます。