東漢時代323 献帝(五) 公孫度 190年(5)

今回で東漢献帝初平元年が終わります。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
夏四月、(朝廷が)幽州牧劉虞を太傅に任命しましたが、道路が遮断されているため、信命(命令任命書)を送ることができませんでした。
 
幽部(幽州)は荒外(荒服の外。辺遠)に接しており、資費(費用)が膨大だったので、毎年常に青州冀州の賦から二億余銭を割いて調達し、不足を満たしていました。
しかし当時は所々で道が断絶されており、輸送した物資が届かなくなりました。
そこで劉虞は古くなった服を着て草履を履き(敝衣縄屨)、食事は二つ以上の肉を並べず(食無兼肉)、務めて寛大な政治に留意し(務存寛政)、農桑(農業)を勧督(奨励)し、上谷の胡市の利を開き、漁陽の塩鉄の饒(豊かな物資)を通じさせました(『資治通鑑』胡三省注によると、上谷にはかつて関市があり、胡人と貿易をしていました。漁陽には塩官と鉄官が置かれていました。劉虞はこれらを恢復して利益をもたらしました)
その結果、民が悦んで作物が豊作になり(民悦年登)、一石当たりの穀物が三十銭になりました。
青州や徐州の士庶(士人や庶人)で難を避けて劉虞に帰順した者が百余万口に上ります。
劉虞はこれらを全て収容慰撫して安定した生業を立てさせました。
流民は皆、移住して来たことを忘れるほどでした。
 
[二十] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
五月、司空荀爽が死にました。
六月辛丑(中華書局『白話資治通鑑』は「辛丑」を恐らく誤りとしています)、光禄大夫种拂を司空にしました。
种拂は种卲霊帝中平六年・189年参照)の父です。
 
[二十一] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
董卓が大鴻臚韓融、少府陰脩、執金吾胡母班、将作大匠呉脩、越騎校尉王瓌を派遣し、関東を安定させて袁紹等を解譬(諭して説得すること)させました。
しかし胡母班、呉脩、王瓌が河内に至ると、袁紹が河内太守王匡を使って全て逮捕して殺しました。
 
三国志魏書六董二袁劉伝』の裴松之注によると、胡母班は王匡の妹の夫でした。
裴松之注では、王匡に捕えられた胡母班が王匡に書を送っており、その文中に「僕()と太傅馬公、太僕趙岐、少府陰脩が共に詔命を受けた(詔によって使者になった)」と書かれています。しかし朝廷が馬日磾と趙岐に命じて天下を慰撫させるのは初平三年192年)八月の事で、董卓は既に死んでいるので、時代が合いません。
資治通鑑』胡三省注は胡母班の書を疑っており、『資治通鑑』本文も採用していません。
 
陰脩も袁術に殺されました。
韓融だけは名徳のおかげで禍を免れました。
 
[二十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
董卓が五銖銭を廃止し、改めて小銭を鋳造しました。
五銖銭は西漢から流通していた貨幣で、王莽が廃しましたが、光武の中興後にまた使われるようになりました。
五銖は重さです。十黍で一、十で一銖、二十四銖で一両になります。
 
董卓は雒陽と長安から銅人、鐘虡、飛廉、銅馬の類をことごとく集めて小銭を鋳造しました。
その結果、貨幣の価値が下がって物価が上がり(貨賎物貴)穀物一石が数万銭にも上りました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、「銅人」は秦始皇帝が鋳造した銅像です。
「鐘虡」は鐘を掛ける台で、神獣や猛獣の飾りが施されていました。
「飛廉」は神禽で、西漢武帝が飛廉館を置きました。
「銅馬」は西漢の東門京(人名)が制作し、金馬門外に置かれました。
東漢明帝が長安から飛廉と銅馬を運び、雒陽上西門外の平楽館に置きました。また、馬援も銅馬を献上したことがありました。
上の記述では、飛廉と銅馬も長安から集めたと書かれていますが、実際には雒陽にあったはずです。
 
[二十三] 『後漢書孝献帝紀』からです。
冬十一月庚戌、鎮星(土星)、熒惑(火星)、太白(金星)が尾(尾宿。二十八宿の一つ)で一つになりました。
 
[二十四] 『資治通鑑』からです。
左中郎将蔡邕が建議しました「孝和(和帝)以下の廟号で宗を称している者は、全て省いて先典(以前の制度)を遵守するべきです(皆宜省去以遵先典)。」
献帝(実際は董卓)はこれに従いました。
 
資治通鑑』胡三省注を元に解説します。
礼においては、「祖」は功がある者、「宗」は徳がある者の廟号に使われます。今回、和帝以下は徳がないのに「宗」が使われているとみなされ、全て廃されました。
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』は翌年に書いていますが、『資治通鑑』は『後漢書孝献帝紀』に従って本年の事としています。
 
以下、『後漢書孝献帝紀』からです。
この年、有司(『資治通鑑』は蔡邕としています)が上奏し「和桓の四帝は功徳がないので宗を称すべきではありません。また、恭懐敬隠恭愍の三皇后も共に正嫡ではないので、后を称すのは相応しくありません。皆、尊号を除くことを乞います」と言いました。
献帝は制(皇帝の言葉、命令)を発して「可」と言いました。
孝献帝紀』の注によると、和帝は穆宗、安帝は恭宗、順帝は敬宗、桓帝は威宗という廟号が贈られ、和帝の母梁貴人は恭懐皇后、安帝の祖母宋貴人は敬隠皇后、順帝の母李氏は恭愍皇后という諡号が贈られていました。本年、これらの廟号と諡号が除かれました。
 
[二十五] 『三国志呉書一孫破虜討逆伝』と『資治通鑑』からです。
孫堅が軍を進めて董卓を討つに当たって、長史公仇称に兵を率いて任務に従事させ(原文「将兵従事」)、州に還って軍糧を督促させました。魯陽城東門外に帳幔を施し、道の神を祀って公仇称を送り出します(祖道送称)。官属がそろって会飲しました。
 
この時、董卓が歩騎数万人を派遣して孫堅を迎撃させました。軽騎数十が先に到着します。
 
董卓の騎兵が突然現れましたが、孫堅は酒を飲んで談笑しながら部曲を整頓して陣を構えさせ、妄りに動くことを禁じました。
後に騎兵がしだいに多くなると、孫堅はゆっくり席を離れ、官属部曲を導いて入城しました。
その後、孫堅が言いました「先ほど、堅()がすぐに立たなかったのは、兵が互いに蹈藉(踏み合うこと。雑踏、混乱)して諸君が入れなくなることを恐れたからだ。」
董卓の兵は孫堅軍の士衆が非常に整っているのを見て、敢えて城を攻撃せずに還りました。
 
[二十六] 『三国志魏書六董二袁劉伝』と『資治通鑑』からです。
河内太守王匡が泰山兵を率いて河陽津(『資治通鑑』胡三省注によると「河陽津」は「孟津」です)に駐屯し、董卓を図ろうとしました董卓を討伐しようとしました)
三国志魏書六董二袁劉伝』は「泰山兵を派遣して河陽津に駐屯させた(遣泰山兵屯河陽津)」と書いていますが、『資治通鑑』は「王匡が河陽津に駐屯した(王匡屯河陽津)」としています。ここでは「王匡が泰山兵を率いて河陽津に駐屯した」と解釈しました。
 
董卓は疑兵を送って平陰を渡るように見せ、秘かに鋭衆を送って小平から北に渡河させました。董卓の兵が回りこんで王匡の後ろを撃ち、津北で大破します。王匡軍はほとんど全滅しました(死者略尽)
 
三国志魏書一武帝紀』裴松之注によると、王匡は董卓軍に敗れて泰山に逃げ帰り、勁勇(強勇の者)を集めて数千人を得ました。そこで張邈と合流しようとします。
しかし王匡はこれ以前に執金吾胡母班を殺したため、胡母班の親属が憤怒を抑えきれず、曹操と勢力を併せて共に王匡を殺しました(王匡が殺された具体的な時間はわかりません)
 
[二十七] 『資治通鑑』からです。
中郎将徐栄が同郡(玄菟)の人で元冀州刺史公孫度董卓に推薦しました。
董卓公孫度を遼東太守に任命します。
 
公孫度は着任してから法によって郡中の名豪大姓百余家を誅滅しました。郡中が震慄(震撼戦慄)します。
その後、東は高句驪を討伐し、西は烏桓を撃ちました。
 
公孫度が親しくしている官吏・柳毅(『資治通鑑』胡三省注によると、魯孝公の子を子展といい、その孫が祖父の字から展を氏にしました。その後、展禽の代に至って柳下を食邑にしたため、氏を柳に改めました)、陽儀等に言いました「漢祚(漢の皇位はもうすぐ絶たれる。諸卿と共に王になることを図るべきだ(『資治通鑑』の原文は「当與諸卿図正耳」ですが、『三国志魏書八二公孫陶四張伝』では「図正」ではなく「図王」です。恐らく『資治通鑑』の誤りです)。」
 
そこで公孫度は遼東を分けて遼西郡と中遼郡を設け、それぞれに太守を置きました。
また、海を越えて東莱の諸県を収め、営州刺史を置きました。
公孫度自身は遼東侯平州牧に立ちます。
その後、漢二祖(高帝と光武帝の廟を建てて、承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)し、天地を郊祀して藉田の儀式(春耕前に天子や諸侯が田を耕して農業を奨励する儀式)を行いました。
また、公孫度は鸞路(帝王の車)に乗り、旄頭、羽騎(『資治通鑑』胡三省注によると、「羽騎」は羽林の騎兵です)を設けました。
 
 
 
次回に続きます。