東漢時代324 献帝(六) 劉虞 191年(1)

今回は東漢献帝初平二年です。七回に分けます。
 
東漢献帝初平二年
辛未 191
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月辛丑(初六日)、天下に大赦しました。
 
[] 『三国志魏書一武帝裴松之注含む)』と『資治通鑑』からです。
朝廷(皇帝。献帝が幼沖(幼少)で、董卓に制圧されており、関塞(『資治通鑑』胡三省注によると、函谷関と桃林塞を指します)で遠く隔てられていて存否(安否。生死)も分からないので、関東諸将が議論し、袁紹と韓馥が宗室の賢儁(賢才英俊)である幽州牧劉虞を主に立てようとしました。
 
曹操が反対して袁紹等に言いました「董卓の罪は四海に暴露された。吾等(我々)が大衆を合わせて(大軍を結集して)義兵を挙げてから、遠近で響応しない者がなかったのは、義によって動いたからだ。今、幼主は微弱で姦臣に制されているが、昌邑西漢廃帝劉賀)のような亡国の釁()があるわけではない。それなのに一旦にして改易(交換。廃立)したら、天下の誰がこれに安んじるだろう(納得するだろう。原文「天下其孰安之」)。諸君が北面しても(北の幽州(劉虞)に従っても)、私は自ら西向する(西の長安(献帝)に従う)。」
 
かつて袁紹が一つの玉印を手に入れ、曹操が席にいる場所でそれを得意そうに見せました(原文「於太祖坐中挙向其肘」。「挙向其肘」が具体的にどういう動作かはわかりません)
曹操(表面は)笑いましたが、(心中で)嫌いました(笑而悪焉)
 
武帝紀』裴松之注によると、曹操は大笑して「私は汝袁紹には従わない(吾不聴汝也)」と言いました。
袁紹の玉印は玉璽を意味しており、それを曹操に見せたのは、玉印を手に入れた袁紹に従うように示唆したのかもしれません。
袁紹はまた人を送って曹操を説得させました「今、袁公は勢が盛んで兵が強く、二子も既に成長しています。天下の群英でこれに勝る者がいるでしょうか(天下群英孰踰於此)?」
それでも曹操は応じませんでした。
こうしたことがあったため、曹操はますます袁紹を不直(不誠実)であるとみなし、誅滅を図るようになりました。
 
本文に戻ります。
韓馥と袁紹袁術に書を送ってこう伝えました「帝は孝霊の子ではないので、絳西漢の周勃と灌嬰)が少主を誅廃し、代王西漢文帝)を迎えて立てた故事に基き、大司馬劉虞を奉じて帝に立てることを欲する。」
袁術は秘かに不臣の心(皇帝になる野心)を抱いていたため、国家に長君(年長の皇帝)がいたら不利になると考え、表面上は公義(公の大義)を口実にして拒否しました。
袁紹が再び袁術に書を送りました「今、西は幼君がいると称しているが、血脈の属ではない霊帝の子ではない)。公卿以下は皆、董卓に媚びて仕えているので、どうしてまた(彼等を)信じられるだろう(安可復信)。兵を送って関要(関所要塞。要衝の地)に駐屯させるだけで、皆、自ら蹙死する長安を孤立させれば、彼等は困窮して自滅する)。東に聖君を立てれば太平を望めるのに、なぜ躊躇するのだ(東立聖君太平可冀如何有疑)。また、室家(袁隗等の家族)が殺戮されたのに子胥(父と兄の仇を討った伍子胥を念じず、今後も北面することができるのか(家族を殺した皇帝に仕えることができるのか)。」
袁術が答えました「聖主は聡叡で周成西周成王)の質がある。賊卓(逆賊董卓が危乱の際を利用して百寮を威服しているが、これは漢家の小厄(小さな災難)の時に遇っただけだ(此乃漢家小厄之会)。それなのに今上(陛下)には血脈の属がないと言うのは、誣言ではないか(豈不誣乎)。また、室家が殺戮されたのにそれでも北面できるのかと言うが、これは董卓が為したことだ。どうして国家(陛下)の責任なのだ(豈国家哉)慺慺赤心(「慺慺」は恭勤な様子、「赤心」は忠心です)の志は董卓を滅ぼすことにあり、他の事は知らない(志在滅卓不識其他)。」
 
韓馥と袁紹は元楽浪太守張岐等を派遣し、劉虞に建議の内容を報告して尊号(帝号)を贈りました。
しかし劉虞は張岐等に会うと厳しい口調で叱責してこう言いました(厲色叱之曰)「今、天下が崩乱して主上が蒙塵(流亡)しているのに、私は重恩を蒙りながら国の恥を雪ぎ清めることができずにいる(未能清雪国恥)。諸君はそれぞれ州郡を拠点にしており、共に王室のために力を合わせて心を尽くすべきなのに(勠力尽心王室)、却って逆謀を為すことで私を汚そうとするのか(而反造逆謀以相垢汙邪)!」
劉虞は頑なに拒否して結局帝位に即きませんでした。
 
韓馥等は劉虞が尚書の政務を兼任して承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって封侯任官を行うこと(領尚書事承制封拝)を請いました。
しかし劉虞はこれにも同意せず、匈奴に奔って自ら隔絶しようとしました。
袁紹等は劉虞擁立をあきらめました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と資治通鑑』からです。
二月丁丑(十二日)董卓を太師に任命しました。
位が諸侯王の上になります。
 
[] 『三国志呉書孫破虜討逆伝裴松之注含む)』からです。
孫堅が梁東に移って駐軍しましたが、董卓軍に激しく攻められました(大為卓軍所攻)孫堅は数十騎と共に包囲をくずして脱出します。
孫堅は常に赤い罽幘(毛織物の頭巾)を被っていました。敗走する孫堅は幘を脱いで親近の将祖茂に被らせます。董卓の騎兵が争って祖茂を追ったため、孫堅は間道から走って難を逃れました。
祖茂は困迫(窮迫)して馬から下り、幘を冢(墳墓)の間の焼けた柱に被せ、草の中に伏せました。
董卓の騎兵が遠くから幘を望み見て、数重に包囲しましたが、落ち着いて近づいてから柱だと知り、立ち去りました(定近覚是柱乃去)
 
資治通鑑』はこの戦いを「孫堅が梁東に移って駐軍したが、董卓の将徐栄に敗れた。散卒(四散した兵)を再び集めて陽人(地名)に進駐した」と書いています。これは『後漢書董卓列伝(巻七十二)』が元になっています。『董卓列伝』は「当時、長沙太守孫堅豫州諸郡の兵を率いて董卓を討った。これ以前に董卓が将徐栄、李蒙を派遣して四方で虜掠(略奪)させた。徐栄は梁で孫堅に遭遇し、これと戦って孫堅を破った。潁川太守李旻を生け捕りにし、煮殺した(亨之)(中略)明年(本年)孫堅が散卒を集合させ、梁県の陽人に進駐した」と書いています。
尚、胡三省注によると、梁県は河南郡に属し、陽人は梁県の西に位置します。
 
以下、『三国志呉書孫破虜討逆伝』と『資治通鑑』からです。
孫堅が再び兵を集めて梁県の陽人に到りました。
董卓は東郡太守胡軫を派遣し、歩騎五千を指揮して孫堅を撃たせました。呂布が騎督になります。
ところが胡軫呂布の関係が良くなかったため、孫堅が出撃して大破しました。都督華雄が首を斬られます(原文「梟其都督華雄」。「梟」は首を斬って晒すことです)
 
後漢書孝献帝紀』は「袁術が将孫堅を派遣し、董卓の将胡軫と陽人で戦わせた。胡軫軍が大敗した。そこで董卓が洛陽(雒陽)諸帝の陵を発掘した」と書いています。
しかし『資治通鑑』と『後漢書董卓列伝(巻七十二)』では前年の遷都の際、董卓呂布に命じて諸帝陵や公卿以下の冢墓(墳墓)を掘り起こさせています。
諸陵は呂布(前年)董卓(本年)によって二回発掘されたのかもしれません。
 
『孫破虜討逆伝』の裴松之注が胡軫呂布について書いていますが、董卓軍が大敗したという記述はありません。以下、裴松之注から引用します。
孫堅が梁県の陽人に到りました。
董卓も歩騎五千を派遣して迎撃します。陳郡太守胡軫が大督護に、呂布が騎督になり、その他の歩騎将校都督も大勢いました。
胡軫は字を文才といいます。性急な人物で、あらかじめこう宣言しました「この行軍は、一人の青綬(太守。孫堅を斬れば治まる(今此行也,要当斬一青綬乃整斉耳)。」
諸将はこれを聞いて嫌いました(原文「諸将聞而悪之」。なぜ諸将が不満を抱いたのかがよくわかりません。多数の将校都督が従軍しているのに、手柄を立てる機会が少ないことを嫌ったのかもしれません)
胡軫の軍が広成に到りました。陽人城から数十里離れています。
日が暮れた時、士馬の疲労が極まっていたため、本来ならそこで止まって宿営するべきでした。また、董卓の節度(指示)を受けており、広成で宿営して馬に餌を与えたり飲食してから(秣馬飲食)、夜(夜半)に乗じて兵を進め、夜明けに臨んで城を攻めるはずでした。
ところが諸将は胡軫を悪憚(憎み懼れること)しており、賊孫堅胡軫の出征を失敗させることを欲していました。
そこで呂布等が「陽人城中の賊は既に走った。追撃して探すべきだ。そうしなければ失ってしまう(当追尋之,不然失之矣)」と宣言(揚言。大声で告げること。言論を流布すること)して夜の間に軍を進めました。
しかし城中には甚だ守備が設けられていたため、掩襲(急襲)できず、吏士が饑渴して人馬とも疲弊しました。しかも夜間に城下に到ったため、塹塁塹壕、塁壁)もありません。
兵達が甲冑を脱いで休息すると、呂布がまた兵達を驚かせて「城中の賊が出て来た!」と宣言しました。
軍衆は混乱して逃走し、皆、甲冑を棄て、鞍馬(馬や馬具)を失いました。
兵達は十余里走ってから賊がいないことを確認しました。ちょうど空が明るくなったので城下に引き還し、兵器を拾い集めて城を攻めようとします。
しかし城の守りが既に固められており、塹壕も深く掘られていたため、胡軫等は攻めることができず帰還しました。
 
 
 
次回に続きます。