東漢時代324 献帝(六) 劉虞 191年(1)
辛未 191年
朝廷(皇帝。献帝)が幼沖(幼少)で、董卓に制圧されており、関塞(『資治通鑑』胡三省注によると、函谷関と桃林塞を指します)で遠く隔てられていて存否(安否。生死)も分からないので、関東諸将が議論し、袁紹と韓馥が宗室の賢儁(賢才・英俊)である幽州牧・劉虞を主に立てようとしました。
曹操が反対して袁紹等に言いました「董卓の罪は四海に暴露された。吾等(我々)が大衆を合わせて(大軍を結集して)義兵を挙げてから、遠近で響応しない者がなかったのは、義によって動いたからだ。今、幼主は微弱で姦臣に制されているが、昌邑(西漢の廃帝・劉賀)のような亡国の釁(罪)があるわけではない。それなのに一旦にして改易(交換。廃立)したら、天下の誰がこれに安んじるだろう(納得するだろう。原文「天下其孰安之」)。諸君が北面しても(北の幽州(劉虞)に従っても)、私は自ら西向する(西の長安(献帝)に従う)。」
それでも曹操は応じませんでした。
本文に戻ります。
韓馥と袁紹が袁術に書を送ってこう伝えました「帝は孝霊の子ではないので、絳・灌(西漢の周勃と灌嬰)が少主を誅廃し、代王(西漢文帝)を迎えて立てた故事に基き、大司馬・劉虞を奉じて帝に立てることを欲する。」
袁紹が再び袁術に書を送りました「今、西は幼君がいると称しているが、血脈の属ではない(霊帝の子ではない)。公卿以下は皆、董卓に媚びて仕えているので、どうしてまた(彼等を)信じられるだろう(安可復信)。兵を送って関要(関所・要塞。要衝の地)に駐屯させるだけで、皆、自ら蹙死する(長安を孤立させれば、彼等は困窮して自滅する)。東に聖君を立てれば太平を望めるのに、なぜ躊躇するのだ(東立聖君太平可冀如何有疑)。また、室家(袁隗等の家族)が殺戮されたのに子胥(父と兄の仇を討った伍子胥)を念じず、今後も北面することができるのか(家族を殺した皇帝に仕えることができるのか)。」
袁術が答えました「聖主は聡叡で周成(西周成王)の質がある。賊卓(逆賊・董卓)が危乱の際を利用して百寮を威服しているが、これは漢家の小厄(小さな災難)の時に遇っただけだ(此乃漢家小厄之会)。それなのに今上(陛下)には血脈の属がないと言うのは、誣言ではないか(豈不誣乎)。また、室家が殺戮されたのにそれでも北面できるのかと言うが、これは董卓が為したことだ。どうして国家(陛下)の責任なのだ(豈国家哉)。慺慺赤心(「慺慺」は恭勤な様子、「赤心」は忠心です)の志は董卓を滅ぼすことにあり、他の事は知らない(志在滅卓不識其他)。」
しかし劉虞は張岐等に会うと厳しい口調で叱責してこう言いました(厲色叱之曰)「今、天下が崩乱して主上が蒙塵(流亡)しているのに、私は重恩を蒙りながら国の恥を雪ぎ清めることができずにいる(未能清雪国恥)。諸君はそれぞれ州郡を拠点にしており、共に王室のために力を合わせて心を尽くすべきなのに(勠力尽心王室)、却って逆謀を為すことで私を汚そうとするのか(而反造逆謀以相垢汙邪)!」
劉虞は頑なに拒否して結局帝位に即きませんでした。
しかし劉虞はこれにも同意せず、匈奴に奔って自ら隔絶しようとしました。
袁紹等は劉虞擁立をあきらめました。
位が諸侯王の上になります。
祖茂は困迫(窮迫)して馬から下り、幘を冢(墳墓)の間の焼けた柱に被せ、草の中に伏せました。
『資治通鑑』はこの戦いを「孫堅が梁東に移って駐軍したが、董卓の将・徐栄に敗れた。散卒(四散した兵)を再び集めて陽人(地名)に進駐した」と書いています。これは『後漢書・董卓列伝(巻七十二)』が元になっています。『董卓列伝』は「当時、長沙太守・孫堅も豫州諸郡の兵を率いて董卓を討った。これ以前に董卓が将・徐栄、李蒙を派遣して四方で虜掠(略奪)させた。徐栄は梁で孫堅に遭遇し、これと戦って孫堅を破った。潁川太守・李旻を生け捕りにし、煮殺した(亨之)。(中略)明年(本年)、孫堅が散卒を集合させ、梁県の陽人に進駐した」と書いています。
尚、胡三省注によると、梁県は河南郡に属し、陽人は梁県の西に位置します。
孫堅が再び兵を集めて梁県の陽人に到りました。
孫堅が梁県の陽人に到りました。
諸将はこれを聞いて嫌いました(原文「諸将聞而悪之」。なぜ諸将が不満を抱いたのかがよくわかりません。多数の将校・都督が従軍しているのに、手柄を立てる機会が少ないことを嫌ったのかもしれません)。
胡軫の軍が広成に到りました。陽人城から数十里離れています。
日が暮れた時、士馬の疲労が極まっていたため、本来ならそこで止まって宿営するべきでした。また、董卓の節度(指示)を受けており、広成で宿営して馬に餌を与えたり飲食してから(秣馬飲食)、夜(夜半)に乗じて兵を進め、夜明けに臨んで城を攻めるはずでした。
兵達が甲冑を脱いで休息すると、呂布がまた兵達を驚かせて「城中の賊が出て来た!」と宣言しました。
軍衆は混乱して逃走し、皆、甲冑を棄て、鞍馬(馬や馬具)を失いました。
兵達は十余里走ってから賊がいないことを確認しました。ちょうど空が明るくなったので城下に引き還し、兵器を拾い集めて城を攻めようとします。
次回に続きます。