東漢時代325 献帝(七) 孫堅入洛 191年(2)

今回は東漢献帝初平二年の続きです。
 
[(続き)] 本文に戻ります。
ある人が袁術に言いました「孫堅がもしも雒を得たら、今後、制御できなくなります(不可復制)。これは狼を除いて虎を得るというものです。」
袁術孫堅を疑って軍糧の輸送を止めました。
 
孫堅は昼夜を駆けて袁術に会いに行きました。陽人と魯陽の距離は百余里あります。
孫堅が地面に図を描きながら形勢を説明して(画地計校)こう言いました「出身して(この身をなげうって)顧みないのは、上は国家のために賊を討ち、下は将軍の家門における私讎を慰めるためです(袁家の仇に報いるためです)。堅(私)董卓には骨肉の怨があるわけではありません。それなのに将軍は浸潤の言(「浸潤」はゆっくり浸透することですが、「浸潤の言」は讒言を指します)を受けて逆に嫌疑しています。何故ですか(何也)?」
 
『孫破虜討逆伝』裴松之注は孫堅の別の言葉も紹介しています。
孫堅袁術にこう言いました「大功をもうすぐ勝ち取ろうというのに(大勳垂捷)軍糧が続きません。これは呉起が西河で嘆き泣いて、楽毅が成功を前に遺恨した理由です。将軍が深く考慮することを願います(願将軍深思之)。」
 
袁術は慚愧して不安になり(原文「踧踖」。不安な様子です)、すぐに軍糧を徴発しました。
孫堅は屯営に戻りました。
 
董卓は関東諸侯の中で孫堅の猛壮だけを恐れたため、将軍李傕等を派遣して和親を欲していることを伝えました。また、孫堅の子弟で刺史や郡守に任命したい者がいたらそれぞれ報告させ、孫堅が上表して任用することを許可しました(令堅列疏子弟任刺史郡守者,許表用之)
 
しかし孫堅はこう言いました「董卓は天に逆らって無道で、王室を蕩覆(動揺。顛覆)させている。今、汝の三族を滅ぼして四海に示さなかったら(不夷汝三族縣示四海)、私は死んでも瞑目できない(死不瞑目)。どうして汝と和親することがあるか(豈将與乃和親邪)!」
 
孫堅は更に大谷まで軍を進めました。雒陽から九十里の距離です。
 
董卓は自ら出陣して孫堅と諸陵の間で戦いましたが、敗走しました。
澠池まで退いて駐屯し、陝で兵を集めます。
 
三国志呉書孫破虜討逆伝』は「董卓はすぐに都を遷し、西に向かって入関した。雒邑(雒陽)を焚焼した」と書いていますが、遷都して雒陽を焼いたのは昨年の事です。
 
孫堅は雒陽に進んで呂布を撃ちました。呂布も敗走します。
 
孫堅(入城してから)宗廟を掃除して太牢(牛豚を使う祭祀の規格)で祭祀を行いました。
 
孫堅が伝国の璽を城南の甄官井の中から見つけました。
資治通鑑』胡三省注によると、「甄官井」は甄官署の井戸です。少府に甄官令がおり、甄官は玉石や陶器を管理しました。
 
この時の事を『孫破虜討逆伝』裴松之注が詳しく書いています。以下、裴松之注からです。
当時の旧京(雒陽)は空虚になり、数百里にわたって煙火がありませんでした。
孫堅は前進して城に入り、惆悵(憂愁、失意の様子)として涙を流しました。
入洛した孫堅は漢の宗廟を掃除し、太牢で祭祀を行いました。
その後、城南の甄官井に駐軍します。
(早朝)、五色の気が現れたため、軍を挙げて驚き怪しみ、水を汲もうとする者がいませんでした。
孫堅は人に命じて井戸に入らせ、漢の伝国の璽を探し出しました。
印には「受命于天。既寿永昌(天から命を受け、既に長寿となり永く昌盛する)」と刻まれており、方円(周囲)は四寸で、上の紐(綬を結ぶ部分)には五龍が交わっており、上の一角(印の一角。または龍の角の一つ)が欠けていました。
以前、黄門張讓等が乱を為し、天子を脅して出奔した時、左右の者が分散し、璽を管理する者が井戸の中に投じました(それが今回発見されました)
 
裴松之が引用している『山陽公載記』によると、袁術が帝号を僭称しようとしており、孫堅が伝国の璽を得たと聞いたので、孫堅の夫人を拘留して印璽を奪いました献帝建安元年・196年に再述します)。 
 
裴松之が伝国の璽について詳しく解説していますが、省略します。
 
本文に戻ります。
孫堅は兵を分けて新安と澠池の間に進み、董卓に対抗しました。
 
董卓が長史劉艾に言いました「関東の軍はしばしば敗れており、皆、孤(わし)を畏れて何もできない(無能為也)。ただ孫堅だけはわずかに剛直で(小戇)、頗る人を用いることができるので、諸将に語って警戒するように知らせるべきだ(使知忌之)
(わし)は昔、周慎と共に西征したことがあり、周慎が金城で辺(辺章韓遂を包囲した。孤(わし)は張温と話をして、(わしが)指揮する兵を率いて周慎のために後駐(後援)となることを求めたが、張温は同意しなかった。孤(わし)はその形勢を上言(上書)したが、周慎が勝つはずはないと知っていたのだ(知慎必不克)。台(恐らく尚書台。あるいは朝廷の意味かもしれません)には今でも本末(一部始終の記録)がある。
上書に対する回答が来る前に(事未報)、張温がまた孤(わし)に先零の叛羌を討たせた。西方を一時に蕩定(平定)できると思ったのだ。孤(わし)は勝てないと知っていたが(『資治通鑑』は「孤知其不克」、『孫破虜討逆伝』の注は「孤皆知其不然(孤はそうはできないと全て知っていたが)」です。ここは『資治通鑑』に従いました)、止められなかったので出発した(不得止遂行)。但し別部司馬劉靖を留め、歩騎四千を率いて安定に駐屯させ、声勢(支援、呼応する部隊)にした。叛羌は引き返して(我が軍の)帰路を断とうと欲したが、孤(わし)が軽く撃つだけで道が開かれた(小撃輒開)。これは安定に兵がいることを畏れたからだ。虜(敵)は安定に数万人がいるはずだと言い、劉靖だけだとは知らなかったのである。その時にも上章(上書)して状況を述べた。
孫堅は周慎に従って行軍した時、周慎と話をして、孫堅が)一万の兵を率いて金城に向かい、周慎が二万の兵で後駐になるように求めた。辺韓は城中に宿穀(食糧の蓄え)がないので、外運に頼らなければならないが、周慎の大兵(大軍)を畏れて軽率に孫堅と戦うことができず、一方、孫堅の兵は運道(輸送路)を断つのに足りていたのだ。児曹(若僧達。張温と周慎を指します)がこの言を用いていたら、必ず羌を谷中に還らせ(必還羌谷中)、あるいは涼州を平定することもできたかもしれない。しかし張温は孤(の言)を用いることができず、周慎も孫堅(の言)を用いることができなかった。
(周慎は)自ら金城を攻めてその外垣(外壁)を破壊し、使者を駆けさせて張温に報告した。自分では朝夕にも勝てると思い(自以克在旦夕)、張温も計が当たった(成功した)と思ったのだ(自以計中也)。ところが渡遼児(『三国志集解』によると、辺章と韓遂を指します)が果たして蔡園(葵園)を断つと、周慎は輜重を棄てて走り(原文「慎棄輜重走」。『孫破虜討逆伝』裴松之注に従いました。『資治通鑑』は「卒用敗走」です)、やはり孤の策の通りになった。台(朝廷、あるいは尚書台)はこれによって孤を都郷侯に封じ、孫堅を佐軍司馬にした。孫堅の)見識は人(恐らく「董卓」を指します)とほぼ同じなので、自ずから可となる(『資治通鑑』胡三省注は、「その才は用いることができる(其才可用也)」と解説しています。孫堅の見識は董卓とほぼ同等なので、その才能は用いることができる、という意味だと思います。原文「所見略與人同固自為可」)。」
 
資治通鑑』では董卓が最後にこう言っています「しかし孫堅が)理由なく諸袁児(袁氏の若僧達)に従っていたら、最後は孫堅も)死ぬことになるだろう(但無故従諸袁児終亦死耳)。」
『孫破虜討逆伝』裴松之注にはありません。
 
劉艾が言いました「孫堅は時々計を見せていますが、もともと李傕、郭汜に及びません。聞くところによると、美陽亭北で千人の騎歩を率いて虜と合戦し、死にそうになって印綬を失いました(殆死亡失印綬。これは有能とは言えません(此不為能也)。」
董卓が言いました「その時の孫堅は義従(朝廷に帰順した少数民族を烏合しており、兵は虜の精(精強、精鋭)に及ばなかった。そもそも、戦には利鈍(順調と困難。勝敗)があるものだ。ただ山東の大勢(大局)を論じるに当たって、最後は孫堅に)及ぶ者はいない(原文「但当論山東大勢,終無所至耳」。誤訳かもしれません)。」
 
劉艾が言いました「山東児は百姓を駆略(駆逐略奪)することで寇逆(侵犯叛逆)を為していますが、その鋒(鋭鋒)は人董卓に及ばず、堅甲利兵強弩の用(費用。供給)もまた人董卓に及びません。どうして久しくいられるでしょう(亦安得久)。」
董卓が言いました「その通りだ(然)。ただ二袁袁紹袁術劉表孫堅を殺せば、天下が自ずから孤(わし)服従することになる。」
 
董卓は東中郎将董越を澠池に、中郎将段煨を華陰に、中郎将牛輔(『資治通鑑』胡三省注によると、牛氏は殷(商)の出身です。周が微子を宋に封じ、その後裔に当たる司寇牛父が長丘で狄に敗れて死にました。子孫が王父(祖父)の字(牛父)から牛を氏にしました)を安邑に駐屯させました。牛輔は董卓の娘壻です。
他の諸将も諸県に配置して山東の進攻を防がせました。
 
董卓自身は長安に向かいました。
 
孫堅董卓に掘り起こされた漢帝の諸陵を埋めて修復してから、軍を率いて魯陽に還りました。
 
 
 
次回に続きます。