東漢時代326 献帝(八) 袁紹と韓馥 191年(3)

今回も東漢献帝初平二年の続きです。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』三国志魏書一武帝紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月、董卓長安に入りました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
公卿が皆、出迎えて車の下で拝しました。
董卓が御史中丞皇甫嵩の手をとって(卓抵手謂御史中丞皇甫嵩こう問いました「義真皇甫嵩の字)よ、(わしを)怖れるか(怖未乎)?」
皇甫嵩が言いました「明公が徳によって朝廷を輔佐するなら、大慶が至るので何を怖れるのでしょう(大慶方至何怖之有)。もしも妄りに刑を用いて満足しようとするのなら(若淫刑以逞)、天下が皆懼れます。どうして嵩(私)だけのことなのでしょうか(豈独嵩乎)。」
 
後漢書皇甫嵩朱儁列伝(巻七十一)』を見ると異なる記述になっています。
董卓皇甫嵩の手をとって問いました「義真は服したか?」
皇甫嵩が笑って謝ったため、董卓は赦しました。
 
皇甫嵩朱儁列伝』の注が『献帝春秋』の記述を引用していますが、その内容も異なります。
皇甫嵩が車の下で董卓を拝すと、董卓が「(今は)服すことができたか(可以服未)?」と問いました。
皇甫嵩が言いました「(かつては)どうして明公がこの地位に到ると分かったでしょう(だから以前は反対したのです。原文「安知明公乃至於是」)。」
董卓が言いました「鴻鵠(大鳥)には元々遠志があるのに、燕雀には分からないだけだ(鴻鵠固有遠志,但燕雀自不知耳)。」
皇甫嵩が言いました「昔は明公と共に(私も)鴻鵠になりましたが、明公は今日、鳳皇鳳凰に変わったのです(明公今日変為鳳皇耳)。」
 
三国志魏書六董二袁劉伝』の裴松之注が引用している『山陽公載記』では、董卓が「鴻鵠(大鳥)には元々遠志があるのに、燕雀には分からないだけだ」と言った後、皇甫嵩が「昔は明公と共に鴻鵠になりましたが、図らずも(明公が)今日鳳皇鳳凰に変わったのです(不意今日変為鳳皇耳)」と言いました。
董卓は笑って「卿が早く服していれば、今日、拝さなくてもよかったのだ」と言いました。
 
資治通鑑』は張璠の『漢紀』の記述(『董二袁劉伝』の裴松之注が『山陽公載記』に並べて引用しています)を採用しています。
 
資治通鑑』に戻ります。
董卓の党羽が董卓を尊んで太公西周の功臣呂尚と同等にし、「尚父」という尊称を使おうとしました。
董卓が蔡邕に意見を求めると、蔡邕はこう言いました「明公の威徳は誠に巍巍(高大な様子)としていますが、太公と比べたら、愚見ではまだ相応しくありません(愚意以為未可)。関東を平定し、車駕が旧京に還るのを待って、その後にこれを議すべきです。」
董卓はあきらめました。
 
董卓司隸校尉劉囂に命じ、吏民の中で「人の子でありながら不孝な者」「臣下でありながら不忠な者」「官吏になりながら清廉ではない者」「弟でありながら不順な者」(為子不孝、為臣不忠、為吏不清、為弟不順者)を登記させました。
全てその身が誅殺され、財物は官に没収されます。
この後、人々は互いに誣告し合い、冤罪で死んだ者が千を数えました。
百姓は囂囂(喧噪、または怨恨や誹謗の様子)とし、道で会っても敢えて話をせず、目で相手を見るだけになりました(道路以目)
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
六月丙戌(二十三日)地震がありました。
 
[] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、司空种拂を罷免し、光禄大夫済南の人淳于嘉を司空にしました。
太尉趙謙を罷免し、太常馬日磾を太尉にしました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、何進が雲中の人張楊并州に還らせて募兵させましたが、ちょうど何進が失敗したため、張楊は数千人の衆を擁して上党に留まりました(雲中郡、上党郡とも并州に属します)
後に袁紹が河内にいたため、張楊は河内に向かって帰順し、南単于於扶羅と共に漳水に駐屯しました。
 
韓馥は豪傑の多くが袁紹に帰心していたため、心中で嫉妬しました(忌之)。そこで秘かに袁紹に供給する軍糧を削減してその衆を離散させようとしました。
 
この時、韓馥の将麴義(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に平原の人鞠譚がおり、子の鞠閟が難を避けて麴氏に改めました。その後、西平の著姓(大姓)になりました)が叛しました。
韓馥は麴義と戦って敗れます。
袁紹はこれを機に麴義と結びました。
 
袁紹の客逢紀が袁紹に言いました「将軍は大事を挙げたのに人の供給を仰いでいます(韓馥の食糧に頼っています。原文「仰人資給」)。一州を拠点に持たなければ、自分を保全できません(不拠一州無以自全)。」
袁紹が言いました「冀州の兵は強く、我が士は飢乏している。もしうまくいかなかったら、立つ場所もなくなってしまう(設不能辦無所容立)。」
逢紀が言いました「韓馥は庸才なので、秘かに公孫瓉を招いて冀州を取らせれば、韓馥は必ず驚き懼れます。その機に辯士を送って(韓馥に)禍福を述べれば、韓馥は突然の出来事に逼迫されて(迫於倉卒)、必ず進んで遜譲(へりくだって人に譲ること)するでしょう(必肯遜譲)。」
袁紹は納得してすぐに書信を公孫瓉に送りました。
 
果たして、公孫瓉が兵を率いて冀州に至りました。表面上は董卓討伐を口実にしましたが、秘かに韓馥襲撃を謀ります。
韓馥は公孫瓉と戦って利がありませんでした。
 
この頃、董卓が入関して長安に向かいました。
 
袁紹は延津に軍を還し、外甥(姉妹の子)に当たる陳留の人高幹および韓馥が親しくしている潁川の人辛評、荀諶、郭図等を使って韓馥を説得させました「公孫瓉が燕代の卒(兵)を指揮し、勝ちに乗じて南に来ました。諸郡がこれに応じており、その鋒(勢い)には当たることができません。袁車騎(車騎将軍袁紹も軍を率いて東に向かっており(河内から延津に東進しており)、その意を量ることができません。心中で将軍の危機を心配しています(竊為将軍危之)。」
韓馥が懼れて言いました「それではどうするべきだ(然則為之柰何)?」
荀諶が問いました「君(あなた)が自ら料るに(量るに)、寛仁で衆を許容し、天下が帰服している点において、袁氏と比べてどちらが上でしょうか(寛仁容衆為天下所附,孰與袁氏)?」
韓馥が答えました「(私は)及ばない(不如也)。」
荀諶が問いました「危機に臨んで確実な計策を出し、智勇が常人を越えているという点において、また袁氏と比べたらどちらが上でしょうか(臨危吐決智勇過人,又孰與袁氏)?」
韓馥が答えました「(私は)及ばない(不如也)。」
荀諶が問いました「世に恩徳を施し、天下の家がその恵みを受けている点において、袁氏と比べたらどちらが上でしょうか(世布恩徳,天下家受其恵,又孰與袁氏)?」
韓馥が答えました「(私は)及ばない(不如也)。」
荀諶が言いました「袁氏は一時の傑であり、将軍の資質には三つの方面で及ばないという形勢があるのに(将軍資三不如之勢)、久しくその上にいます。彼が(いつまでも)将軍の下に居るはずがありません。冀州は天下の重資(重要な資源、拠点)です。彼がもし公孫瓉と力を併せてこれを取ろうとしたら、危亡がすぐに訪れます(危亡可立而待也)。袁氏は将軍の旧(旧知)であり、しかも同盟を為しました董卓討伐の盟を結んだことを指します)。当今の計は、もし冀州を挙げて袁氏に譲れば、彼は必ず将軍を厚く徳とし(深く感謝し)、公孫瓉も争うことができなくなります。こうすれば、将軍には譲賢の名(賢人に譲ったという名声)があり、その身は泰山より安定します(安於泰山)。」
韓馥は恇怯(臆病)な性格だったためこの計に納得しました。
 
韓馥の長史耿武、別駕閔純、治中李歴がこれを聞いて諫めました(『資治通鑑』胡三省注によると、「耿武」は「耿彧」とも書きます。また、「李歴」ではなく「騎都尉沮授」の名を置くこともあります)冀州には帯甲(甲冑を着た兵士)百万がおり、穀物は十年も支えることができます。袁紹は孤客窮軍で(「孤客」は孤立した外地の者、「窮軍」は困窮した軍です)、我が鼻息を仰いでおり(我々の鼻息をうかがっており。原文「仰我鼻息」)、嬰児が股掌(腿や脚)の上にいるようなものなので、哺乳を絶てばすぐに餓殺できます。どうして州を与えようと欲するのですか。」
韓馥が言いました「私は袁氏の故吏(旧部下)であり、しかも才が本初に及ばない。徳を量って譲るのは、古人が貴んだことだ(度徳而譲,古人所貴)。諸君だけが何を病むのだ(諸君だけがこれに反対するのはなぜだ。原文「諸君独何病焉」)。」
 
 
 
次回に続きます。