東漢時代327 献帝(九) 韓馥の死 191年(4)

今回も東漢献帝初平二年の続きです。
 
[(続き)] これ以前に韓馥の従事趙浮と程渙が強弩一万張を指揮して孟津に駐屯していましたが、韓馥が袁紹冀州を譲ると聞き、兵を率いて馳せ還りました。
この時、袁紹は朝歌の清水(『資治通鑑』胡三省注によると、清水は朝歌を流れません。朝歌を流れる淇水の俗称を「清水」といったようです。『三国志魏書六董二袁劉伝』の注に「袁紹はこの時、朝歌清水口にいた」とありますが、清水口は淇口を指すようです。南岸は延津です。袁紹も船で黄河を東下して冀州の鄴に向かっています)にいました。
後ろから来た趙浮等は、船数百艘、衆一万余人を擁しており、兵鼓(陣容)を整え、夜の間に袁紹の営を越えました。
袁紹は甚だこれを嫌いました。
 
趙浮等が冀州に入って韓馥に言いました「袁本初の軍には一斗の糧もなく、それぞれ既に離散しており、張楊や於扶羅が新たに附きましたが、まだ用いようとしていないので(未肯為用)、敵とするには足りません(不足敵也)。小従事等(趙浮等)は現有の兵を使ってこれを拒むことを請います。旬日(十日)の間に袁紹軍は)必ず土崩瓦解します。明将軍はただ門を開いて枕を高くしていればよく、憂い懼れる必要はありません(明将軍但当開閤高枕,何憂何懼)。」
韓馥はやはり同意せず、冀州牧の位を避け、官府を出て中常侍趙忠の旧舍に住みました。
そこから子を送って印綬袁紹に譲ります。
 
袁紹が到着すると、従事十人が争って韓馥を棄てて帰順しました。
耿武と閔純だけは刀を持って袁紹を拒みましたが、抵抗できずあきらめました。
袁紹は二人を殺しました。
 
こうして袁紹冀州牧を兼任することになりました(領冀州牧)。承制(皇帝の代わりに発する命令)によって韓馥を奮威将軍に任命します。但し韓馥は将軍号を得ただけで、統率する者がなく、官属もいません。
三国志・魏書一・武帝紀』はこの出来事を「秋七月、袁紹が韓馥を脅して冀州を取った」と書いています。
 
袁紹は広平の人沮授(『資治通鑑』胡三省注によると、沮氏は黄帝の史官沮誦の後代です)を奮武将軍に任命しました。
沮授に諸将を監護させ、甚だ厚く寵遇します。
 
魏郡の人審配、鉅鹿の人田豊も共に正直だったため韓馥の下では志を得られませんでした。袁紹田豊を別駕に、審配を治中に任命しました。
また、南陽の人許攸、逢紀や潁川の人荀諶も袁紹の謀主(謀士。参謀)になりました。
 
袁紹が河内の人朱漢を都官従事にしました。
都官従事は本来、司隸校尉の属官です。袁紹董卓を避けて京師を去った時、司隸校尉の符節を置いていきましたが、その後も領司隸校尉司隸校尉兼任)という立場にいたようです(『資治通鑑』胡三省注参照)
 
これまで朱漢は韓馥に礼遇されておらず、袁紹に徼迎(迎合)しようという意思があったため、勝手に兵を発して韓馥第(邸)を包囲し、刃(刀)を抜いて屋根に登りました。
韓馥は走って楼に登ります。
朱漢は韓馥の大児(長子)を捕まえて、槌で両脚を折りました。
しかし袁紹がすぐに朱漢を逮捕して殺しました。
 
韓馥はそれでも憂い怖れ、袁紹から離れる機会を探して、張邈を頼りに行きました(従紹索去往依張邈)
後に袁紹が使者を送って張邈を訪ねさせました。使者はあることを計議して張邈の耳元で話をします。その時、席にいた韓馥は、自分を害す方法を図っていると思いました。韓馥は暫くして起ちあがって溷(厠)に行くと、書刀(竹木の簡を削る刀)を使って自殺しました。
 
[] 『三国志・魏書一・武帝紀』と『資治通鑑』からです。
鮑信が曹操に言いました「袁紹は盟主になりましたが、権によって利を専らにしており、自ら乱を生むでしょう。これはもう一人の董卓が現れるのと同じです(是復有一卓也)。しかしもしこれを抑えるとしても、我々の力では制すことができず、ただ敵対する勢力を作るだけです(力不能制袛以遘難)。暫くは大河の南を占拠して変化を待つべきです(且可規大河之南以待其変)。」
曹操はこの意見を称賛しました。
 
ちょうど黒山賊の于毒、白繞、眭固等十余万の衆が魏郡と東郡を侵しました(『武帝紀』では「魏郡と東郡」ですが、『資治通鑑』は「魏郡」を省略しています)
東郡太守・王肱では防げなかったため、曹操が兵を率いて東郡に入り、濮陽で白繞を撃って破りました。
 
袁紹が上表して曹操を東郡太守に任命しました袁紹因表操為東郡太守)。東郡の治所は東武陽に置かれます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
単于於扶羅が張楊を脅迫して袁紹に背反させ(劫張楊以叛袁紹、黎陽に駐屯しました。
董卓張楊を建義将軍河内太守に任命しました。
 
[十一] 『後漢書孝献帝紀』からです。
九月、蚩尤旗が角、亢に現れました。
孝献帝紀』の注によると、「蚩尤旗」は彗星の一種です。後ろの広がった部分が曲がっており、旗のように見えました。この星が現れたら王者が四方を征伐すると言われていました。
角と亢は蒼龍二十八宿の東方七宿)に属す星です。
 
[十二] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
太史が気に望んで(天象雲気を観測して)「大臣で殺戮に遭う者がいるはずです(当有大臣戮死者)」と言いました。
そこで、董卓が人を使って「衛尉張温が袁術と交流している」と誣告させました。
 
冬十月壬戌(初一日)、張温を市で笞殺して予言に応じました。
資治通鑑』胡三省注は「張温は西征の時に董卓を斬ることができず、逆に董卓の手によって死んでしまった。哀れなことだ(可哀也已)」と書いています。
 
[十三] 『後漢書孝献帝紀』と『資治通鑑』からです。
十一月、青州の黄巾が太山(泰山)を侵しましたが、太山(泰山)太守・応劭が撃破しました。
 
黄巾は転じて勃海を侵し、衆三十万になりました。黒山(賊)と合流しようとします。
しかし公孫瓉が歩騎二万人を率いて東光の南で迎撃し、大破して三万余級を斬首しました。
資治通鑑』胡三省注によると、東光は勃海に属す県です。
 
(黄巾)は輜重を棄て、逃走して河を渡りました。
公孫瓉は賊が河を半分渡った時に逼迫し、再び大勝しました。賊の死者は数万に上り、流血によって河が赤く染まります(流血丹水)。
公孫瓉は生口(捕虜)七万余人を獲ました。奪った車甲(車や甲冑)財物は数え切れず、威名が天下に轟きました(威名大震)
 
 
 
次回に続きます。