東漢時代 劉備登場

東漢献帝初平二年191年)劉備が登場しました。

東漢時代328 献帝(十) 劉備登場 191年(5) 


ここでは『三国志蜀書二先主伝』を元に劉備について書きます。

 
先主(三国・蜀の初代皇帝。『先主伝』は以下全て「先主」と書いていますが、ここでは「劉備」と書きます)は姓を劉、諱(実名)を備、字を玄徳といい、涿郡涿県の人です。

西漢景帝の子に当たる中山靖王勝の後代で、劉勝の子を劉貞といい、西漢武帝元狩六年(前117年)、涿県の陸城亭侯に封じられました。

しかし酎金武帝元鼎五年112年参照)に坐して侯位を失い、そのまま涿県に住みました。

 
裴松之の注によると、劉備は臨邑侯の枝属(支流)ともいいます。

臨邑侯は東漢光武帝時代に北海靖王興の子劉復が封じられました。劉興は光武帝の兄劉縯の子です。

 
劉備の祖父は劉雄、父は劉弘といい、代々州郡に仕えました。
劉雄は孝廉に挙げられ、官が東郡范令(県令)に至りました。
 
劉備は若い頃に父を失い(少孤)、母と共に履物を売ったり蓆を織ることを生業にしていました(履織席為業)
家の東南角の籬(竹垣)の上に桑樹が生えていて(垣根の中に桑の木が生えていて、垣根の上に延びているように見たのだと思います。原文「舍東南角籬上有桑樹」)、高さが五丈余もありました。遠くから見ると鬱蒼と茂っていて小さい車蓋のように見えます(原文「童童如小車蓋」。「童童」は繁茂した様子です)
往来する者は皆、この樹の非凡な様子を怪しみ、ある者は貴人が現れるはずだと言いました。

裴松之注によると、涿人李定が「この家は必ず貴人が出る」と言いました。

 
劉備は幼い頃、宗中(親戚)の諸小児(子供達)と樹下で戯れてこう言いました「私は必ずこの羽葆蓋車(帝王の車。「羽葆蓋」は羽毛で作った屋根です)に乗るようになろう(吾必当乗此羽葆蓋車)。」
叔父の劉子敬が言いました「汝は妄語(妄言)してはならない。我が門が滅ぶことになる。」
 

十五歳の時、母が劉備を遊学させました。同宗の劉徳然および遼西の人公孫瓉と共に、元九江太守で同郡の人盧植に師事します。

劉徳然の父元起は常に資金を劉備に与え、劉徳然と同等にしました。

劉元起の妻が言いました「それぞれ一家なのに(別の家なのに)、どうして常にそうできるのですか(各自一家何能常爾邪)。」
劉元起が言いました「我が宗中にはこの児(子)がおり、常人ではない。」
 
公孫瓉が劉備と深く交わって友人になりました。公孫瓉が年長だったため、劉備が兄事します。
 
劉備はあまり読書を楽しまず(好まず)、狗・馬や音楽、美しい衣服を喜びました(楽しみました)
身長は七尺五寸、手を垂らしたら膝の下にとどき(垂手下膝)、振り返って後ろを見たら自分の耳が見えました(顧自見其耳)
語言(口数)が少なく、人に対して善くへりくだり(善下人)、喜怒を顔色に表しませんでした。
豪俠と交わり結ぶことを好んだため、年少の者が争って従いました。
 
中山の大商張世平、蘇雙等は千金の資産を蓄えていました。
馬を売って巡り歩いた際、涿郡を通り(販馬周旋於涿郡)、そこで劉備を見て常人ではないと思ったため、多くの金財を与えました。
劉備はこの資金を使って徒衆を集めることができました。
 
霊帝の末期、黄巾が挙兵し、州郡がそれぞれ義兵を挙げました。

劉備もその属(配下)を率いて校尉鄒靖に従い、黄巾賊を討って功を挙げたため、安喜尉(県尉)に任命されました。

 

裴松之注によると、平原の人劉子平が劉備に武勇があると知りました。

当時、張純が反叛したため、青州が詔を受け、従事に兵を率いて張純を討伐させました。従事が平原を通った時、劉子平が劉備を推薦します。
劉備は従事に従い、野で賊に遭遇しました。
劉備は負傷しましたが、死んだふりをしました(中創陽死)。賊が去ってから故人(旧知)が車に載せて運んだため、難を逃れることができました。
後に軍功によって中山安喜尉に任命されました。
 
本文に戻ります。

督郵が公事によって安喜県に来ました。劉備が謁見を求めましたが、督郵が通さなかったため、劉備は直接進入して督郵を縛り、杖で二百回打ちました。印綬を解いて督郵の首と馬(馬を繋ぐ柱)を繋ぎ(または「印綬を首に繋いで督郵を馬に縛りつけ。原文「繋其頸著馬」)、官を棄てて亡命します。

 
この事件は裴松之注に詳しく書かれています(本文の内容と若干異なります)
劉備は安喜尉に任命されましたが、後に州郡が詔書を受け取り、軍功を立てて長吏(県の長官)になった者を沙汰(淘汰)することになりました。

劉備は自分が遣中(対象。「遣」は降格罷免の意味です)にいるのではないかと疑いました。

督郵が県に来ると、果たして劉備を淘汰することになり、劉備も事前にそれを知りました(督郵至県当遣備,備素知之)
劉備は督郵が伝舍に居ると聞き、謁見を求めようとしました。しかし督郵は病と称して劉備に会おうとしません。
劉備はこれを恨み、治(官府)に還ると吏卒を率いてまた伝舍を訪ね、門に突入してこう言いました「私は府君の密教(密命)を被って督郵を逮捕することになった。」
劉備は牀(床)の上で督郵を縛り、出奔して県界まで来た時、自ら印綬を解いて督郵の首に繋ぎ、樹に縛り付けて鞭杖で百余回打ちました。
劉備は督郵を殺そうとしましたが、督郵が哀願したため、赦して去りました。
 
本文に戻ります。

暫くして、大将軍何進が都尉毌丘毅を丹楊(丹陽)に派遣して兵を募らせました。

劉備もこれに同行し、下邳に至った時、賊に遭遇しました。力戦して功を立てたため、下密丞に任命されましたが、また官を去りました。
後に高唐尉になり、令に遷されました。
 
裴松之注によると、霊帝末年、劉備は京師にいました。後に曹公曹操と共に沛国に還り、兵衆を募集しました(募召合衆)
ちょうど霊帝が死んで天下が大乱したため、劉備も軍を起こして董卓討伐に従いました。
 
本文に戻ります。

劉備は高唐令になりましたが、賊に破れたため、走って中郎将公孫瓉を頼りました。

公孫瓉は上表して劉備を別部司馬に任命し、青州刺史田楷と共に冀州袁紹を防がせました。

しばしば戦功を立てたため、試しに平原令代理に任命されました(試守平原令)
後には平原相を兼任します(領平原相)
郡民の劉平が以前から劉備を軽視しており、劉備の下になることを恥としたため、客を送って刺殺させました。
しかし客は劉備を刺すことができず、劉備に事情を語って去りました。
このように劉備は人心を得ていました。
袁紹が公孫瓉を攻めた時、劉備は田楷と共に東に向かい、斉に駐屯しました。
 
裴松之注によると、劉平が客と結んで劉備を刺殺させましたが、劉備はそれを知らず、甚だ厚く遇したため、客は事情を話して去りました。
当時は人民が飢饉に苦しみ、集まって略奪を行っていました(屯聚鈔暴)
劉備は外は寇難を防ぎ、内は財施(施し)を豊かにしました。身分が低い士(士之下者)でも必ず同じ席に坐り、同じ簋(食器)で食事をし、簡択(選択。分け隔て)がなかったため、多くの衆が帰服しました。