東漢時代329 献帝(十一) 孫堅の死 191年(6)

今回も東漢献帝初平二年の続きです。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
袁術南陽に入った時は数百万の戸口がありましたが、袁術が驕奢淫逸で欲をほしいままにし、税の徴収にも限度がなかったため、百姓がこれを苦にして徐々に離散していきました。
 
袁術袁紹が対立してからは、それぞれが党援を立てて互いに策謀を図りました。
袁術は公孫瓉と結び、袁紹劉表と連なります。豪傑の多くは袁紹に附きました。
 
袁術が怒って言いました「群豎は私に従わず、我が家の奴に従うのか(群豎不吾従而従吾家奴乎)!」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。袁紹は司空袁逢袁術の父)の孼子庶子で、後に家を出て伯父袁成を継いだため、袁術袁紹を「吾家奴」と呼びました。
 
袁術は公孫瓉にも書を送って「袁紹は袁氏の子ではない」と伝えました。
これを聞いた袁紹は大怒しました。
 
袁術孫堅を送って劉表を撃たせました。
劉表はその将黄祖を派遣して樊鄧の間で迎撃させます。
しかし孫堅黄祖を撃破して襄陽を包囲しました(襄陽は劉表の拠点です。黄祖も襄陽に退却しました)
 
劉表は夜の間に秘かに黄祖を城外に出し、兵を徴発させました。
黄祖が兵を率いて還ろうとしましたが、孫堅が迎え撃ったため、黄祖はまた敗走して峴山の中に隠れました。
資治通鑑』胡三省注によると、峴山は襄陽から十里離れています。
 
孫堅は勝ちに乗じて夜間、黄祖を追撃しました。
しかし黄祖の部曲の兵が竹木の間から隠れて孫堅を射殺しました(暗射堅殺之)

後漢書孝献帝紀』では初平三年(翌年)の春に孫堅が死んでおり、『三国志呉書一孫破虜討逆伝』も初平三年にこの事を書いています。以下、『孫破虜討逆伝』からです。
初平三年、袁術孫堅荊州を討征させ、劉表を撃ちました。劉表黄祖を派遣して樊鄧の間で迎撃させます。
孫堅はこれを撃破し、更に追撃して漢水を渡り、襄陽を包囲しました。しかし単馬で峴山に行った時、黄祖の軍士に射殺されました。

『孫破虜討逆伝』裴松之注が「孫堅はその衆を全て集めて劉表を攻めた。劉表は門を閉じ、夜になって将祖を秘かに出して兵を徴発させた。黄祖が兵を率いて還ろうとしたが、孫堅が迎撃した。黄祖は敗走して峴山の中に隠れた。孫堅は勝ちに乗じて夜間、黄祖を追撃した。黄祖の部下の兵が竹木の間から隠れて孫堅を射殺した」と書いており、『資治通鑑』はこれを元にしています。
 
裴松之はもう一つ異なる説を載せています。
劉表の将呂公が兵を指揮し、山に沿って孫堅に対抗しました(縁山向堅)
孫堅は軽騎で山中を探して呂公を討ちます。
しかし呂公の兵が石を落とし、孫堅の頭に中りました。孫堅はすぐに頭が割れて命を落としました(応時脳出物故)
 
裴松之注によると、孫堅はこの時、三十七歳でした。
 
上述の通り、『資治通鑑』は初平二年191年。本年)孫堅の死を書いていますが、『後漢書孝献帝紀』『三国志呉書一孫破虜討逆伝』とも初平三年(翌年)の事としています。
また、『孫破虜討逆伝』裴松之注は「孫堅は初平四年正月七日に死んだ」という説も載せています。
『欽定四庫全書後漢(袁宏)』では「初平三年五月」に孫堅が死んでいます。
 
『孫破虜討逆伝』裴松之注に孫策孫堅の子)の書が記載されており、そこでは孫策が「臣は年十七で頼りとするところ(父)を失った(喪失所怙)」と書いています献帝建安二年・197年参照)
孫策献帝建安五年200年)に二十六歳で死ぬので、孫策が十七歳の時に孫堅が死んだとしたら、本年(初平二年191年)に当たります。
資治通鑑』胡三省注によると、張璠の『漢紀』と胡沖の『呉暦』も初平二年に孫堅が死んだとしており、『資治通鑑』はこれらに従っています。
 
以下、『孫破虜討逆伝』と『資治通鑑』からです。
孫堅が孝廉に推挙した長沙の人桓階が劉表を訪ねて孫堅の喪(死体)を請いました。
劉表は桓階の義を認めて同意しました。
 
孫堅の兄の子孫賁が士衆を率いて袁術に附きました。
袁術は再び上表して孫賁豫州刺史に任命します。
この後、袁術劉表に勝てなくなりました。
 
孫堅には四子がいました。孫策孫権孫翊孫匡です。
後に孫権が尊号(帝号)を称してから、孫堅諡号を贈って武烈皇帝にしました。
 
『孫破虜討逆伝』裴松之注によると、孫堅の廟号は始祖といい、墓は高陵といいます。
また、孫堅には五子がいたともいいます。孫策孫権孫翊孫匡は呉氏が産んだ子で、もう一人、庶生の少子孫朗がいました。一名を孫仁といいます。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
董卓が入関した時、朱儁を雒陽に留めて守らせました。
朱儁は秘かに山東諸将と通謀しましたが、董卓に襲われるのを懼れ、荊州に出奔しました。
 
董卓は弘農の人楊懿を河南尹に任命しましたが、朱儁が再び兵を率いて雒陽に還り、楊懿を撃って走らせました。
朱儁は河南が破壊されて資本とする物がないため(残破無所資)、東の中牟に駐屯し、州郡に書を送って董卓討伐の軍を請いました。
 
徐州刺史陶謙が上書して朱儁を車騎将軍代理に任命し(上儁行車騎将軍)、精兵三千を派遣して朱儁を助けました。
余州の郡もそれぞれ兵を送りました(亦有所給)
 
陶謙は丹陽の人です。
黄巾が徐州を侵した時、朝廷が陶謙を刺史に任命しました霊帝中平五年・188年に青徐州の黄巾が再び挙兵して郡県を侵しました。恐らくこの時です)
陶謙は徐州に入ると黄巾を撃ち、大破して走らせました。そのおかげで州境が安寧になりました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
劉焉は益州で秘かに異計(独立する計策)を図っていました。
沛の人張魯は祖父張陵から代々五斗米道を行っており、蜀に客居していました。
張陵、張魯に関しては霊帝中平元年184年)にも書きました。『資治通鑑』胡三省注によると、張陵は後に「天師」と呼ばれるようになります。
 
張魯の母は鬼道を行っており、しばしば劉焉の家に行き来していました。そこで劉焉は張魯を督義司馬に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉焉は蜀で督義司馬と助義褒義校尉を置き、劉表荊州で綏民校尉を置きました。漢が衰退してから諸侯が勝手に官属を置くようになりました。
 
劉焉は張脩を別部司馬に任命し、張魯と共に兵を合わせて漢中太守蘇固を掩殺(襲撃殺害)させ、更に斜谷閣(「閣」は桟道です。山岩に作った木板の道です)を断絶して漢朝廷の使者を殺害させました。
その上で劉焉はこう上書しました「米賊が道を断ったので、通じることができなくなりました(不得復通)。」
 
また、劉焉は口実を探して州中の豪強王咸、李権等十余人を殺し、威刑(厳格な刑)を立てました。
 
そこで犍為太守任岐と校尉賈龍が兵を起こして劉焉を攻撃しましたが、劉焉は二人を撃って殺しました。
劉焉は意気がしだいに盛んになり、乗輿(皇帝の車)車具千余乗を作りました。
 
荊州刺史劉表が上書しました「劉焉には、子夏が西河で聖人孔子を真似した時に似ているという議論があります(焉有似子夏在西河疑聖人之論)。」
資治通鑑』胡三省注が解説しています。子夏は孔子の弟子です。西河に住んでいた時、西河の人々が子夏を孔子だと思いました。劉表は「劉焉の行動は天子と同じであり、蜀の人々に劉焉が天子だと思わせている」と批難しています。
 
当時、劉焉の子劉範は左中郎将、劉誕は治書御史、劉璋は奉車都尉で、皆、長安献帝に従っていました。小子の別部司馬劉瑁だけがいつも劉焉に従っています。
献帝劉璋を派遣して劉焉を諭させましたが、劉焉は劉璋を留めて京師に返しませんでした。
 
資治通鑑』胡三省注によると、治書侍御史(治書御史)は二人おり、秩六百石です。御史の高第(成績が優秀な者)で法律に明るい者を選んで任命しました。天下から報告された疑事(疑獄)に対して、法律に基づいて是非を判断します。西漢宣帝が宣室で斎居(斎戒時に正殿から離れて住むこと)して事を決した時、御史二人に治書(文献を管理すること)させたところから、治書御史の官が始まりました。
 
 
 
次回に続きます。