袁術が南陽に入った時は数百万の戸口がありましたが、袁術が驕奢淫逸で欲をほしいままにし、税の徴収にも限度がなかったため、百姓がこれを苦にして徐々に離散していきました。
袁術と袁紹が対立してからは、それぞれが党援を立てて互いに策謀を図りました。
袁術が怒って言いました「群豎は私に従わず、我が家の奴に従うのか(群豎不吾従而従吾家奴乎)!」
『資治通鑑』胡三省注が解説しています。袁紹は司空・袁逢(袁術の父)の孼子(庶子)で、後に家を出て伯父・袁成を継いだため、袁術は袁紹を「吾家奴」と呼びました。
袁術は公孫瓉にも書を送って「袁紹は袁氏の子ではない」と伝えました。
劉表はその将・黄祖を派遣して樊・鄧の間で迎撃させます。
しかし孫堅が黄祖を撃破して襄陽を包囲しました(襄陽は劉表の拠点です。黄祖も襄陽に退却しました)。
劉表は夜の間に秘かに黄祖を城外に出し、兵を徴発させました。
黄祖が兵を率いて還ろうとしましたが、孫堅が迎え撃ったため、黄祖はまた敗走して峴山の中に隠れました。
『資治通鑑』胡三省注によると、峴山は襄陽から十里離れています。
しかし黄祖の部曲の兵が竹木の間から隠れて孫堅を射殺しました(暗射堅殺之)。
『後漢書・孝献帝紀』では初平三年(翌年)の春に孫堅が死んでおり、『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』も初平三年にこの事を書いています。以下、『孫破虜討逆伝』からです。
孫堅はこれを撃破し、更に追撃して漢水を渡り、襄陽を包囲しました。しかし単馬で峴山に行った時、黄祖の軍士に射殺されました。
『孫破虜討逆伝』裴松之注が「孫堅はその衆を全て集めて劉表を攻めた。劉表は門を閉じ、夜になって将・黄祖を秘かに出して兵を徴発させた。黄祖が兵を率いて還ろうとしたが、孫堅が迎撃した。黄祖は敗走して峴山の中に隠れた。孫堅は勝ちに乗じて夜間、黄祖を追撃した。黄祖の部下の兵が竹木の間から隠れて孫堅を射殺した」と書いており、『資治通鑑』はこれを元にしています。
劉表の将・呂公が兵を指揮し、山に沿って孫堅に対抗しました(縁山向堅)。
しかし呂公の兵が石を落とし、孫堅の頭に中りました。孫堅はすぐに頭が割れて命を落としました(応時脳出物故)。
上述の通り、『資治通鑑』は初平二年(191年。本年)に孫堅の死を書いていますが、『後漢書・孝献帝紀』『三国志・呉書一・孫破虜討逆伝』とも初平三年(翌年)の事としています。
また、『孫破虜討逆伝』裴松之注は「孫堅は初平四年正月七日に死んだ」という説も載せています。
『欽定四庫全書・後漢記(袁宏)』では「初平三年五月」に孫堅が死んでいます。
『孫破虜討逆伝』裴松之注に孫策(孫堅の子)の書が記載されており、そこでは孫策が「臣は年十七で頼りとするところ(父)を失った(喪失所怙)」と書いています(献帝建安二年・197年参照)。
孫策は献帝建安五年(200年)に二十六歳で死ぬので、孫策が十七歳の時に孫堅が死んだとしたら、本年(初平二年・191年)に当たります。
『資治通鑑』胡三省注によると、張璠の『漢紀』と胡沖の『呉暦』も初平二年に孫堅が死んだとしており、『資治通鑑』はこれらに従っています。
孫堅が孝廉に推挙した長沙の人・桓階が劉表を訪ねて孫堅の喪(死体)を請いました。
後に孫権が尊号(帝号)を称してから、孫堅に諡号を贈って武烈皇帝にしました。
『孫破虜討逆伝』裴松之注によると、孫堅の廟号は始祖といい、墓は高陵といいます。
また、孫堅には五子がいたともいいます。孫策、孫権、孫翊、孫匡は呉氏が産んだ子で、もう一人、庶生の少子・孫朗がいました。一名を孫仁といいます。
董卓が入関した時、朱儁を雒陽に留めて守らせました。
朱儁は秘かに山東諸将と通謀しましたが、董卓に襲われるのを懼れ、荊州に出奔しました。
董卓は弘農の人・楊懿を河南尹に任命しましたが、朱儁が再び兵を率いて雒陽に還り、楊懿を撃って走らせました。
朱儁は河南が破壊されて資本とする物がないため(残破無所資)、東の中牟に駐屯し、州郡に書を送って董卓討伐の軍を請いました。
徐州刺史・陶謙が上書して朱儁を車騎将軍代理に任命し(上儁行車騎将軍)、精兵三千を派遣して朱儁を助けました。
余州の郡もそれぞれ兵を送りました(亦有所給)。
黄巾が徐州を侵した時、朝廷が陶謙を刺史に任命しました(霊帝中平五年・188年に青・徐州の黄巾が再び挙兵して郡県を侵しました。恐らくこの時です)。
陶謙は徐州に入ると黄巾を撃ち、大破して走らせました。そのおかげで州境が安寧になりました。
劉焉は益州で秘かに異計(独立する計策)を図っていました。
沛の人・張魯は祖父・張陵から代々五斗米道を行っており、蜀に客居していました。
張陵、張魯に関しては霊帝中平元年(184年)にも書きました。『資治通鑑』胡三省注によると、張陵は後に「天師」と呼ばれるようになります。
張魯の母は鬼道を行っており、しばしば劉焉の家に行き来していました。そこで劉焉は張魯を督義司馬に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、劉焉は蜀で督義司馬と助義・褒義校尉を置き、劉表は荊州で綏民校尉を置きました。漢が衰退してから諸侯が勝手に官属を置くようになりました。
劉焉は張脩を別部司馬に任命し、張魯と共に兵を合わせて漢中太守・蘇固を掩殺(襲撃殺害)させ、更に斜谷閣(「閣」は桟道です。山岩に作った木板の道です)を断絶して漢朝廷の使者を殺害させました。
その上で劉焉はこう上書しました「米賊が道を断ったので、通じることができなくなりました(不得復通)。」
また、劉焉は口実を探して州中の豪強・王咸、李権等十余人を殺し、威刑(厳格な刑)を立てました。
そこで犍為太守・任岐と校尉・賈龍が兵を起こして劉焉を攻撃しましたが、劉焉は二人を撃って殺しました。
劉焉は意気がしだいに盛んになり、乗輿(皇帝の車)・車具千余乗を作りました。
荊州刺史・劉表が上書しました「劉焉には、子夏が西河で聖人(孔子)を真似した時に似ているという議論があります(焉有似子夏在西河疑聖人之論)。」
『資治通鑑』胡三省注が解説しています。子夏は孔子の弟子です。西河に住んでいた時、西河の人々が子夏を孔子だと思いました。劉表は「劉焉の行動は天子と同じであり、蜀の人々に劉焉が天子だと思わせている」と批難しています。
当時、劉焉の子・劉範は左中郎将、劉誕は治書御史、劉璋は奉車都尉で、皆、長安で献帝に従っていました。小子の別部司馬・劉瑁だけがいつも劉焉に従っています。
献帝が劉璋を派遣して劉焉を諭させましたが、劉焉は劉璋を留めて京師に返しませんでした。
『資治通鑑』胡三省注によると、治書侍御史(治書御史)は二人おり、秩六百石です。御史の高第(成績が優秀な者)で法律に明るい者を選んで任命しました。天下から報告された疑事(疑獄)に対して、法律に基づいて是非を判断します。西漢宣帝が宣室で斎居(斎戒時に正殿から離れて住むこと)して事を決した時、御史二人に治書(文献を管理すること)させたところから、治書御史の官が始まりました。
次回に続きます。